おカネについて思うところ。2

西は姫路に向かった後で、とって返して新大阪から紀伊半島を下り、紀伊田辺へ。紀伊半島には社会人一年目のクリスマスに同期と遊びに行った以来で電車で向かうのは15年ぶりになる。最近浴びていなかった、柔らかな夕暮れの日差しを受けてくろしおは南に進む。あしたはさらに南に向かう予定。仕事もしつつ、美味しい魚を食べるのが楽しみ!

★★★

前回の話の続きをする。

数年前、証券業界や不動産金融業界はバブルに包まれ、多額のボーナスが出た企業も多かった。時期を見計らって投資収益を挙げることができるのも実力のうち、と言うこともできるが、振り返ってみるとやはりあの頃は市場の追い風に乗った、幸運なバブルだったのだと思う。

濡れ手に粟のボーナスは麻薬にも似ている。それは確かに一時の快楽をもたらすだろうが、効き目が切れてしまえば人はより強い快楽を求め、それまでの快楽では満足できなくなる。欲望を否定するわけではないが、カネに対する欲望の行きつく結末となった象徴的な例がサブプライムローンの組成と破綻であり、それをきっかけとしたリーマンショックだったことはよく知られている。

友人が言った、「人にはそれぞれカネを持つ器の大きさがある」という言葉がある。自分自身が持っている器の大きさを越えたお金が舞い込んでくると、人間はしばしば破滅への道を歩んでしまいかねない、という意味だと思う。宝くじの高額当選者がその後必ずしも幸せな人生を歩んではいないこともうなづける。そして僕の目の前にも、ひと時のボーナスに人生を狂わされてしまった人たちの姿があった。カネを持つ器の大きさは、もって生まれたものなのか、経験を通じて大きくしたり小さくしたりできるものなのかはわからない。その友人は、「今の自分にはたくさんのお金をコントロールする器がないから、できる限りお金を手元に置かないようにしている。お金に畏れを抱いている」と言った。

考えてみれば、おカネは宗教に近いものなのかもしれない。なんの変哲もないコインや紙切れに、信用が与えられているからこそ、みなはおカネの価値を信じるのである。おカネ以外信じられない、という人もなかにはいるのかもしれない。なによりもおカネが好きなのに、おカネに人生を狂わされてしまう人もいる、というのはなんとも皮肉としか言いようがない。(さらに続く)