カッコよさ。

「カッコいい」とはどういうことなのかな、と考えている。

子どもの頃ならば、運動ができる、見た目が麗しい、そういうことがカッコいいの基準であった。大人になってもその要素はありながらも、歳を重ねるにつれてその基準は少しずつズレていく。

嘘をついたり、人によって態度を変える、もしくはシチュエーションによって態度を変える、というのは格好悪い部類に入るだろう。また、肩書や所属する組織のことを自分の実力だと勘違いしたり、名刺代わりにしてしまうような人も格好悪いと思う。

自分は子どもからみて、世間から見て「カッコいい」大人でいられているだろうか。狭い世界の論理にすがって、広い世界で見てみれば非常識なふるまいをしていたりはしていないだろうか。

カッコいい人は自然と人からも好かれるのだと思う。60歳になっても70歳になっても現役で走り続けられる人、あちこちで引っ張りだこになる人は、仕事ぶりもさることながら仕事や人生に対する姿勢が魅力なのだろう。そんな「カッコいい」おじいちゃんになりたい。

感謝。

12月も押し迫ってきて、本来ならば師走感があるのだけど、日々忙しくしているとそういう感傷に浸る間もなく目の前に訪れたことに対処していく、という感じになる。感慨にふけるのは時間がある時ならではなのだろう。そういう意味では去年も今年も師走を感じることはあまりない。

感慨にふけることはないのだけれども、感謝の気持ちが湧き上がってくることはある。今年も一年なんとか完走できそうだ、過ごせたということに対する感謝である。人生はひとつひとつ積み上げていくしかなくて、先ばかり見ていては辛いものだけれども、ひとまず目の前のブロックを動かすことだけに専念していれば、気づいたら途方もない数のブロックを積み上げられるのが人間である。

人が、これはできないと諦めたことを拾って食らいつき続けて、最後まで粘ってものにするのが自分のスタイルである。基本的なそれは変えずに、もう少し来年からは人の力も借りながらやっていきたい。

超回復。

北新地にて。ここで飲むのはおそらくは3年ぶり。ついこの間まで足しげく通っていたような気もするが、街の様子はかなり変わっている。印象的なつくりの建物も増えている。以前からいわくつきと言われていた土地にもきらびやかなビルが建設中で、既にテナントがほぼ確定しているのだという。コロナでダメージを受けたはずの歓楽街も、弱まるどころかさらにパワーを増しているように感じる。多額のおカネを手にしてもスタイルを変えずにつつましく暮らしている人が増えている一方で、景気よくカネを使う人の勢いもまだまだ衰えていない。むしろバーチャルでは感じられない熱気を感じに人々は歓楽街に集まるのだろう。

昔よく通ったラウンジとは別のお店へ。世代が違うからなのかもしれないが、キャストのノリもまた違う。悪い言い方をすれば即物的なのだが、長い前振りや段階を踏んでお目当てのものにたどりつく、などという考え方はこんにちでは流行らないのだろう。それを趣きが無いと切り捨てるか、効率的で良いと受け入れるかは人それぞれであるし、世代によっても受け止め方は違うのだろう。

再開発。

2日連続で秋の京都を訪れる。確かに紅葉シーズンだけあってものすごい人手である。軒並み飲食店は行列、駅の周りはバーゲンさながらだ。

 

普段はそそくさと通り過ぎる駅の周りを散策。気がつけば想像以上にたくさんの大型ホテルが建っている。駅前は高さ制限がないということも大きいだろう。局地的な人口密度はかなりのものだと思われるし、インフラなどもかなり苦しいのではないだろうか。

 

京都駅の周りといえば昔はいわくつきの土地なども多かったのだが、一部を残してかなり綺麗になってきた。インバウンドの隆盛、そしてそれを当てこんだ再開発が街の姿を変えてきている。やはり経済の循環が活発であるからこそ、街の澱みが消えて、浄化されてくる部分もあるのは間違いない。

 

開発が進む一角で、昔ながらの街並みも少しばかりは残っている。経済合理性よりも連綿と紡いできたものを守る、という選択をした人たちが住むエリアだ。逆説的ではあるが、こういうエリアがあるからこそ、周りのエリアの資産価値が上がる。なんとも言えない構図ではあるが、こうした矜持とも言える選択をした人たちも経済的な果実を得られるような世の中であってほしいと思う。

ダッシュ。

関西にきたのである。11月も下旬に入ったというのにまだまだ暖かい。紅葉も進んでおらず、やはり今年はいろいろと異常だなと感じる。

 

京都、大阪、そして和歌山とかけ足でいろんな街をめぐる。特に和歌山は6年ぶりくらいに訪れたが、駅前をのぞけばあまり街並みは変わっていない。日本全国いろんな地方都市に行くが、大きく変わった街もあればそうでない街もある。和歌山も残念ながらどちらかというと徐々に縮んでいく街なのだろうな、という雰囲気を感じる。

 

夜遅くに大阪に戻ってくる。街の光が眩しい。そして深夜に差し掛かる時間だというのに人通りがにぎやかである。きょうはそういえば優勝パレードが行われたのだった。認識はしていたが、全くかすることもなく1日が終わってしまった。

 

引き続き忙しくはあるのだけれども、なんとか自分のペースを保ちながらやれている。きょう会った旧来からの知人もなかなかハードな生活を送っている。お互い必死にやれているうちが華だね、と言い合ってねぎらう。案ずるより産むが易し、動いていれば道が開く。そんなことを思い浮かべながら顔なじみの街、18年くらい前に毎日ダッシュしながら帰った道をとぼとぼ歩いて帰路につく。

眠り。

微妙に5時間睡眠くらいの日が続いて寝不足。床が変わると眠れないのも一因。

自分のなかで移動欲がある癖に、寝るのは自宅のベッドが良い、というヌエのような欲望を抱えている。

朝、目が覚めても眠気が残っており、疲れが取れきれていないというのはあまりよろしくない。とはいえ一度目が覚めてしまうともう二度寝もなかなかできない性なのである。

アタマがあまり働いていない状態で複雑な事象に対応するのは難しい。そしてキャパシティの問題もある。

かといって全てのものごとを自分の手から離してしまうのも寂しいものである。人間とはなんと都合のいい生き物なのだろうか。

いろんな人と話す。それぞれにそれぞれの立場があり、考えていることがある。同じ事象に対しても複数の視点から判断がなされる。

特定の立場に与しすぎることなく、なんとなく全体を良い方向に持っていくのは、いざやってみれば無意識にやれることなのだが、難易度は高いことである。

ただこういったことは多少脳と身体が疲れている時のほうがキレよくやれることであり、ピンピンしている時にはかえってやりすぎてしまうものだったりもする。

親と子、子と親。

息子が学童野球をはじめて1年半、初めて通しで年明けから完走したのが今年である。まぁなんというかいろんな感慨がある。

なんというか子どもは楽しく野球をやりながら体力がつけばそれで良いと思うのだが、親は親でいろいろあるのである。それぞれの家庭での野球という競技に取り組むスタンスやら、他の習い事等々との優先度合やら。大人の都合で子どもに負の影響を与えるのは本末転倒だし、あくまでも子どもが主役であるべきなのである。しかしながら、突き抜けて頑張った時にこどもは時にとてつもない可能性や力を発揮することもある。そういう姿を目の当たりにしてしまうと、逃げずに立ち向かって努力することにはどうしようもなく尊い価値があって、できることならば自分の子にもそういう気持ちを味わせてあげたいという感情もムクムクと湧き上がってくるものである。

期待をするからこそ結果が出るのか、それとものびのびとやらせることが良いのか、なんとも言えない部分はある。また来年からも、試行錯誤しながら、楽しんで取り組んでいきたい。