台風とスコール。

大型台風が過ぎ去っていった。翌日はカラッと夏のように晴れた。気圧が低下したせいか頭痛がする。このところ偏頭痛になることが多い。


昼間は洗濯機を何度かまわした。今年の夏はジメジメした日が少なくて助かった。日差しが強いと2時間ほどで干したものが乾いていく。


夜になって子どもと2人で登山の番組を見ていた。ちょうど番組内で雷雨がはじまり、ビバークをする場面になるところで、ゴロゴロと音がする。これはテレビの中のことなのだろうかと思っていたが、そのうちに窓の外がピカピカと光りはじめた。スコールがきたようだ。昼間はひときわ暑かったから、水蒸気が上空に溜まっていたのかもしれない。


出かけていた家人から、駅まで迎えにきてくれとメールがきた。しかしながら迂闊に外に出るのがはばかられる雨量と雷にである。頃合いをみて飛び出したがそれでもずぶ濡れになった。スーパーに立ち寄って切らした食材を買う。濡れた衣類がスーパーの空調で冷えて風邪を引きそうだ。夏もこれでいよいよ本当に終わりかなあ、という1日だった。

残り20ゲーム。

1週間前は3ゲーム離しての首位に立っていたのだが、あれよあれよといううちに首位陥落、そして離されつつあるマリーンズ。そこまでが怖いくらいに出来過ぎていただけに、こんなこともあるだろうとは思っていたが、そろそろ調子を取り戻してほしい。とにかく打てない。なかなかの粒揃いだな、と思っていた打線が、揃って数字を落としている。そのうえにリリーフ陣が崩壊していては野球にならない。


残り20ゲーム。まだもう一度チャンスは来るはずだから、なんとか各選手調子を戻してほしい。51年ぶりの機会を今年逃すとなれば、次は生きているうちに完全優勝が見られるだろうか。


バファローズが破竹の勢いだが、各選手万全ではない状態で、ここまで慣れない優勝争いをしているという緊張感もあり、どこかで疲れは出てくるだろう。独走することはないと思っている。


イーグルスも侮れないが、爆発力はないので、首位に駆け上がるまではいかないだろうとみている。あとは、ホークスにロックオンされているので、潰し合う形になるだろう。


今年も最後まで目が離せない。さらに今週から戦力外通告解禁、来週にはドラフト会議と、イベントが目白押しである。

病欠。

今週、体調がおもわしくなく1日仕事を休んだ。昨年はテレワークといってもなすこともほとんどない日もあったのだが、今年に入ってからは目まぐるしく働く日も多く、ほかの人が働いている日に自分だけ休む、という経験はほぼ初めて、稀有なものである。とはいえ、体調が落ち着いた時間帯にお客さんとの電話をしたり、普段ゆっくりと話ができない人と意見交換したりして、トータルで3時間くらいは仕事らしきものをしてしまった。


全く休んでいるというわけでもないのだが、平日に自分だけ休んでいるというのは気持ちが落ち着かないものである。そこまで疲労が蓄積しているわけでもないので、いまの自分にまとまった休みはそれほど必要ないのだろう。そしていまの自分の気質ならば、ずっとなにか仕事をし続けることが精神衛生上も良いのだと思う。毎日が日曜日、などとなると耐えられない。


ちまたではFIREなんて言葉が流行っている。自分はそこにはほど遠い位置にいるのだけど、結局どれほどおカネが手元にあったとしても、死ぬまで働き続けるのだろうし、そうして他者の役になんらか立つことで承認欲求を得ていくのが人生なのかな、と思っている。

純粋。

最近、クラウドファンディングが面白い。単なる資金調達としての意味合いを超えて、ステークホルダーを勇気づけるブーストであったり、消費者を参加者側に巻き込む仕掛けづくりであったり、いろんなエッセンスが内包されていると感じる。そして、どのルートを辿れば正解なのか、ということが定まっていないのがこれまた面白い。ある人からみれば不完全に思えるような部分が、別の人からみれば魅力に見えたり、完璧だから成功する、というわけでもないのである。そして、おカネ儲けの匂いを出してしまうとダメで、純粋に自分の信じたものを世に出したい、という思いこそが人の心を惹きつける、というところがこれまた面白い。いままで無意識に培ってきた観念をひっくり返される。そしてこれからの若い人は、この観念に沿ってビジネスをしていくのだろう、と思わされる。


金融業界はとかくエスタブリッシュメントがもてはやされる傾向が全然昔から変わらないけれども、もはやそんなものクソ食らえで、新しいことにどんどん飛びついていかないと本当に衰退していく。新しい世の中をデザインできるようなワクワクすることをこれからも探して、触れていきたいと思う。

しきい値。

去年ことしといろいろあったのは確かだけれども、一周まわって幸せに対する閾値が低くなったように思う。以前ならなんでもないようなことでもじんわりと幸せを感じられるようになった。それはある意味では視座が低くなっているとも言えるので、高みを目指していこうとするならば良くないことなのかもしれないが、今さら人となにかを競い合う時代でもないのだろうし、人と比べることなく自分を満足させられる精神的なありようというのは今求められていることなのだと思う。


それでもなお、時間を巻き戻してくれないかな、目が覚めたら数年前に戻ってはいないだろうか、なんて未だに思うこともある。そんなことはあり得ないだろうし、もし万が一時間を巻き戻せたとしても、この数年間の人生をループさせられるのだとすればそれは歓迎すべきことではない。どんな辛いことでも、受け止めて、そこからまた前進していくしかないのである。


過ぎ去った時間と、たゆまず日々のことを積み重ねることだけが、傷を癒やしてくれるものになる。もうちょっと器を広くして、周りの人の幸せや成功を願える自分でもありたい。

小さな死。

先週の登山行は気持ち良いものであったが、3日間くらいは筋肉痛が残った。自己申告ベースながら妻子はほとんど翌日以降の痛みはなかったとのことで、この差はなんだろう、という気持ちになる。言い訳にはなるが、山行の後も毎日かなり歩行距離は長かったのは事実である。


とはいえ、身体をしっかりと動かすのはやはり気持ちいい。12-3年前に本格的に登山を始めたときも、たしかに山に行くとヘロヘロに疲れるのだけど、なんというか普段の暮らしている世界とは違うゾーンを垣間見てきたような感覚があって、下界に戻ってからの生活にも張り合いが出たのは確かである。あと、空に近いところに行くからなのか、人里離れたところに行くからなのかはわからないが、山に行くということはちょっと死ぬことのようなものである。下界に降りると、ああ生の世界に帰ってきたな、という気持ちをいつも抱く。


人生の後半戦、ずっと身体が動いて、山歩きができるならば、人生の彩りがひとつ増えることになるだろう。

リアル。

久しぶりにアウトレットモールに足を運んだ。行く前は、日々の疲れも残っているし留守番してベッドでごろごろしてたいな、、という気持ちが優位であった。ただ、行ってみるとそれはそれで新しい刺激もあるものだ。自分のものはなにひとつとして買わなかったが、やはり人間には買い物をすることで気分をリフレッシュさせる本能が備わっているのかもしれない。そして、ネットショッピングでは解消できない部分も確かにあるのだろう。


ECがどんどん発達しているけれども、やっぱり自分が身につけるものは手にとって確かめたい、という欲求はいつの世も残る。そして、モールを歩けば、予期していなかったモノにも気付いて、出歩かなければ気づくことのなかった自分自身の潜在的な欲求を見つけてあげることもできるのである。こういう、隠された自分の欲求を満たしてあげることは、精神の充実につながるものである。


人間、おカネを抱きしめて死んでいけるわけでもないし、限られた人生の時間、どれだけ楽しいことをやり尽くせたかが重要なのだ。おカネも時間も、どう使っていくか、そろそろ考え直してもいいのかもしれない。