そうじ。

日曜日、年度末にあたり大掃除をするにはまたとないチャンス、15時ごろからようやくスイッチが入り、夕食の時間にかぶりながらなんとかゴミ袋6つにまとめた。いつもながら部屋がスッキリすると気持ちがよい。


息子は、ここ2年以上レゴがお気に入りで、ずっと遊んでいたが、しばらく離れてもらうことになった。レゴばかりで遊んでいると絵本も読めないし、他のおもちゃで遊ぶ頻度も少なくなる。時期によってはカードゲームが好きだったり、おりがみにハマっていた時期もあったが、遊びのバリエーションが硬直化しつつあるのはよくないと思い、本人と合意のうえで一旦手の届かないところに仕舞わせてもらうことになった。


レゴの遊び方もどんどん工夫がされていて、最近ではYouTubeを見ながら仕掛け付きの金庫やピタゴラスイッチみたいなものを作るのが好きだったのだが、しばらくはお休みである。あまりこだわりがないところは、僕とは似なかった部分だと思う。僕はこのブログしかり、けっこうルーティンは欠かさず続けてしまうほうなので。


自分自身、この年度末のタイミングで断捨離するものはなんだろうか、となんとなく考える。日曜の夜。

ジェンダー。

最近ジェンダー関係の話が以前よりもますます増えているように思う。もちろんこれまで女性が声を上げたくてもあげられなかった、黙殺されたきた部分は大きいのだろうし、都度声を上げていかなければ改善がされないのもよくわかるのだが、僕にとってはいささか食傷ぎみである。少なくとも2021年の日本においてほとんどの30代男性は、男性として権力を振りかざすというよりは、振り回されてヘロヘロになっているというのが正直なところではないだろうか。


そして、残りの人生が数年とか10年のじいさんの失言にめくじらを立てるのも、なんだかなあという気持ちになる。あえていえば、もうちょっと意識変革が必要な50-60代にむけての間接的なメッセージと捉えれば良いのかもしれないが、なんでもかんでも正論でぶったたくのがいいとも言えない。


男と女の関係はこれからどうなっていくのだろう。子どもの世代になれば、性別という概念も薄くなってくるのかもしれない。ジェンダーを理由として炎上するようなことが減ってくれることを願う。

スポーツクラブ。

在宅勤務を中抜けして、息子の最後のスポーツクラブを見学にいく。いつのまにか逆上がりもできるようになったし、とび箱も6段を飛べるようになっていた。息子はパパの姿を見つけると嬉しそうにチラチラとこちらをみてくる。かけがえのない時間。


3年間なんてあっという間だ。個人的にも、転職もあったし、Covidに伴うさまざまな制約もあったけれども、保育園のときよりもたくさん子どもの姿をみる時間があってよかったと思う。


将来のためにいまを我慢してなにかを積み重ねるのでなく、その時々で幸せだと思うことに自然に足を向けて、その積み重ねをしていけばいいのかな、と思うようになった。どうせなにがあるかわからない時代だ。不意に辛い状況に陥る可能性もあるのなら、そこを支えてくれるのは幸せに過ごしたときの記憶だ。


だから、楽しいことは先延ばしにせずにどんどんやってしまえばいいのだと思う。先のことは心配しなくともどうにかなる。健康なこころとからださえあれば、どうなっても生きていける。子どもが元気に駆けまわる姿をみていると、そんなことを思い出させてくれる。

ゲームチェンジャー。

緊急事態宣言が解除されるらしい。もっとも、3月に入ってからは平日の電車はますます混雑しているし、休日の人出は盛んである。どだい緊急事態宣言という伝家の宝刀は2ヶ月以上持たないものだったのだ。感染者数がこの2週間で有意に減少したということでもないのだが、これ以上やみくもに自粛を強要しても人々のフラストレーションは溜まるだけだし、為政者がやり玉にあげられるだけ、ということは本人たちがよく分かっているだろう。しかしながら、もう3度目の緊急事態宣言などというものは発出されないだろうし、このあとはどれだけ感染者が新たに出ようとも医療体制の拡充でコントロールしていくしかないように思う。万策尽きたこのタイミングがあらためていろんなことのスタートラインとなるのかもしれない。


さて、オリンピックはどうなるのだろうか。結局のところオリンピックを強行するにおいて、新たな切り口や意義は見受けられなかった。それどころか火中の栗を誰も拾わない、という事態になってしまった。果たしてゲームチェンジャーは現れるのだろうか。まだ、ちょっとだけ期待している自分もいる。

再健康診断。

あと1ヶ月と少しでまた健康診断である。つい年明けに健康診断を受けたばかりなのだが、要再検査となっており、それならば短いスパンでもう一度受けてしまおう、という魂胆である。


正直なところいろいろと数値が悪い。前回も食生活を改善しないと、という指示を受けた。食生活に気をつけなければならないことは理解はしているのだが、お腹は空いてしまうのだ。特にここ1年は、なにか自分のなかにぽっかりと空いた穴を埋めるがごとく、たくさんごはんを食べたように思う。そのペースはいまもあまり変わっていない。だから数値もそんなに改善していない気がする。


健康こそがなによりも大切、というのはよく理解しているつもりではある。健康を失えば働くこともままならず、たちまち人生が窮地に陥るはずだ。一方で、長生きしたいという願望もあまりなくなってきた。普段の生活ではあまり我慢をせず、それでなにかの拍子に早死にしてしまえば、それもまた人生、いたずらに長生きしても良いことはない、と最近の年長者をみても感じるようになってしまった。


とはいえ、今すぐに死ぬわけにもいかないので、あと1ヶ月くらいは、食生活に気をつけてはみるけれども。

輪廻と刹那。

先週も書いたけれども、大学入学からこの春でまる20年になるのだと気づいた。親元を遠く離れて1人暮らしを始めた、という点では、人生のなかでもかなり大きなターニングポイントだった。学生宿舎に入居して、新歓イベントだかに初めて参加した帰り道の夜だっけか、夜空に浮かぶ満月をみあげて、ああ、あと何度あの月を仰ぐことになるだろうか、とふと思ったことを今でも覚えている。


そこから、満月の回数で言えば約240回を経てきたことになる。もう、遠すぎて想像もつかない。18歳のときに、どんな大人になっているだろうかなんて全く分からなかった。その時々で、目の前のことを無我夢中で乗り越えていたら、気づいたらここまできた、という次第だ。それはたぶんこれからも同じなのだろう。


社会人になりたての数年間は仕事がキツくて、金曜の夜になるたびに、ああ、この1週間もなんとか乗り切った。年老いて職から離れるまでに、あの何回この週末を繰り返すのだろう、などと考えていたことを思い出す。とてつもなく長いように見えて、あっという間に十数年が過ぎてしまった。やりたいことは先延ばしにせずにやっておかないと、すぐに60歳くらいになってしまう、と思っている。

カリスマ。

昔よく通っていたお客さんのところに約2年ぶりで訪問した。懐かしい、なにもかもが変わらない。


この会社は特定の業界内ではトップを走っていて、業界紙などでの露出も多いのだけれども、実態は想像以上に宗教じみたところもあって、中の人たちはなかなか独特なロジックで動いている。宗教じみたと書いたけれどもそれはけして揶揄ではなくて、トップにカリスマ性があり、なおかつトップに私利私欲の片鱗がなければ、組織運営としては成功するのだろう。というか、これからの時代の組織運営の成功の形は、限りなく社員の自由度を高めていくか、それともこういったトップの力をもとに統率力を高めていくか、どちらかの極に分かれていくのだろう。どっちつかずであったり、トップの権限を強化する代わりにトップが私利私欲にまみれていればその組織は自壊することは明らかである。


こういう組織を目の当たりにすると、大陸中国などがすぐ想起されてくるのだが、かの国はどうなのだろうか。少数民族の迫害などポイントで問題は抱えつつも、大半の庶民は暮らしに満足しているようにも見える。あれがうまくいくのかはなんともわからない。