相対的感覚。

久しぶりに泊まりで関西に出張。忙しいシーズンもいったん終わり、比較的気楽なものだ。週末の東海道にはどんよりとした雲がたちこめる。

大阪駅近辺は相変わらず賑わっていた。もしかすると東京よりも栄えているかもしれない。難波や天王寺といった繁華街も街自体が新しくなり活気があるように見える。活気を取り戻したひとつの要因として、外国人観光客が戻ってきている。福岡も似たような状況なのだろう。

しかしながら、少し郊外になると地域経済は疲弊しているところが多い。これまでは介護福祉の分野が伸びていたのだが、地方では既に高齢者人口が頭打ちになりつつあり、産業としてもピークに近づいている。これからも成長産業と見込まれるのは首都圏だけである。一方で介護の担い手としての若年者は減り続けており、人手不足が起こりつつある。観光客だけでなく移民として海外から人を受け入れることも現実味を帯びてくる。

わが実家も、みな60歳以上の3人暮らし。それなりに生きがいを持って楽しくやってはいるけれども、やっぱりどことなく活気がなくなったようにも見える。人生で為すべきことの大半をやり遂げて、自由気ままな身分になるのはうらやましくもあるけれど、いざそうなればなったで悩み事も出てくるのだろう。

生涯で人が感じる苦しみや悩み、幸せや楽しみはだいたいみな同じなのではないかと思う。もちろんそれぞれの量を客観的に比べれば全然違うのだけど、普段辛い状況にいる人にとっては、ささいなことでも幸せに感じられるだろうし、逆にはたからみればなんでもないようなことで苦しみ悩む人もいる。毎食美味しいものを食べていれば飽きてしまうが、しこたま働いたり身体を動かした後に口にする白めしおにぎりは、たいそう美味い。それは神様が決めた運命、与えた試練というよりは、人間が持つ習性なのだと思う。さすがに、出会いがしらにぶつかる不幸な事件をもこの論理に当てはめる気にはならない(当事者になったこともないので)が、宝くじで高額当せんした人がむしろ幸せとはほど遠い人生を送っているケースが多い事実から示唆されることはあるだろう。

そう考えると、社会も家族も、時が流れればいろいろと問題が出てくるかもしれないが、周りと比較をしたり、将来の心配ばかりしていてもあまり意味がないように思えてくる。いたずらに不安を煽ったりすることもまた同じく。身も蓋もない話だが、個々人でどう折り合いをつけるか、という話に行き着くのだと思う。