「分人」の数について。

昨日に続いて分人主義の話から派生していく。

昨日書いたように、SNSで分人っぷりを垂れ流している自分ではあるが、実社会ではそれほど多く自分を使い分けていない。と言うか正直なところ複数の自分を使い分けるのがそれほど得意ではない。

幼稚園の頃からそうだったように思う。家での自分と幼稚園での自分をうまく切り替えられない。なので、幼稚園での記憶は教室のなかでみんなが走り回るなか、僕ともう1人の女の子だけが黙々と工作をしていたという印象が大きい。

それでも周りの友達に恵まれたこともあって、小学校に入ってからは学校での自分というものを徐々に形作ることができるようになってきたが、学校では女性の先生を何度か「お母さん」と呼んでしまったことがある(単に甘えん坊だったという可能性もあるが笑)。また、いわゆるギャングエイジ的な行動とは無縁で、むしろそのように粋がってみることに強い抵抗があった。この価値観は今に至るまで変わらない。

そんなわけで、正統派体育会系路線や、やんちゃ路線からは大きく外れていく。そして進路選択はそんな自分でものびのびと過ごせる場所であること、という基準が大前提となって行われることになる。そういう意味では、新卒後最初に入った銀行は、ハズレだったのかもしれない(ハズレだったから後悔している、ということではないし、入って良かったという思いは間違いないが)。結局のところこれからもその基準に沿って人生を選択していくはずだ。

価値観の話から分人の話に戻る。僕は自分が、複数の「分人」を使い分けるのがうまくないばっかりに、複数の自分を巧みに使い分けている人にあまり良い印象を抱けないでいる。本当の自分を隠して演じている、と思ってしまうのだ。「本当の自分」なんてひとつではないはずなのに。これは嫉妬のような気もするし、複数の「分人」を使い分けるのがうまくない自分を無意識に正当化しようとしているのかもしれない。

複数の「分人」を使い分けることに苦手意識を覚えるようになったそもそもの原因は何だろうか。遺伝するものなのか、生活環境に影響を受けるのか。幼少期の人間関係でつまづいた自覚は全くないのだが。

そしてそんな僕がブログでは積極的に違う自分を晒しているのはなぜだろうか。自分のことなのにわからないし、下手にわかろうとすると見てはいけない深淵を覗き込むような気がするので、ひとまず今は見ないようにしておこうと思う。