ヘイトスピーチ、フリージャーナリスト、北風と太陽。

一泊二日で神戸から千鳥停車しながら広島へ。西の方はまだ桜がしっかり咲いている。おまけに花粉ももらってきてしまった。関東では2週間ほど前にはマスクがいらなくなったのだが。新入社員の姿を見かけるとともに、どこの会社でも新卒採用が始まっているらしく、数年ぶりに採用試験を受けにきた大学生と間違われた。50歳を過ぎた警備員のおじさんからみれば20歳も30歳も同じに見える、ということかしら。悪い気はしないけど。

★★★

日頃BLOGOSを愛読しているのだけど、とあるフリージャーナリストの記事が気になった。毎週日曜日に新大久保で行われるようになった在特会デモ、ヘイトスピーチに対して、仲良くしようぜ、という人たちがカウンターデモを起こし、人数でも圧倒、在特会デモの活動を大幅に封じたという経緯が、美談のように報じられている。

個人的な考えとして、ヘイトスピーチには心を痛めるし、デモに乗りこんでいって一喝したい気持ちがないわけでもないのだけど、実際に行動に踏み切ることには違和感を覚える(ヘイトスピーチにとどまらず具体的な危害を加えるのであればそれはまた別の話だが)。カウンターデモもまた、他人の価値観を束縛させるものであると思う。わかりやすい例で言うと、ある人が同性愛者を気持ち悪い、最低だと言った時に、そんな発言を気持ち悪い、最低だと思った(または言った)自分もまた、他人の価値観を尊重せず、束縛してしまっているはずだ。

多数派の良識ある「市民」が、「レイシスト」を封殺する、という図式を報道する姿勢に危うさはないだろうか。「市民」と「レイシスト」の語句が入れ替わるような可能性を考えられないだろうか。僕はある一面からものごとを捉え続けることの危うさを感じる。

このフリージャーナリストは、TPP反対デモの取材報道もよく行っているし、去年はほとんどの記事が反原発デモ、反原発運動に関わるものであった。全ての記事は良識ある「市民」が悪に対峙する、というスタンスで書かれている。加えて興味深いのは、今回のカウンターデモや反原発デモの最盛期は、「市民」の大集団が悪を圧倒!という文体になり、少人数のデモの場合は、弱者としての「市民」の姿を描いている。同じ「市民」でも書き分けが巧い。果たして本当にその図式が成り立つのか、考えてみたことはあるのだろうか。それとも確信犯、芸風としてこのような論調で記事を量産し続けるのであろうか。

これもまた彼へのヘイトスピーチなのかな。北風と太陽の話をふと思い出した。