分人主義とSNS。

平野啓一郎氏が著作を通じて「分人主義」という概念を展開している。人間にはいくつもの顔があり、相手に応じてさまざまな顔を使い分けている。そのどれもが本当の自分であり、唯一無二の本当の自分などというものは存在しないという考え方である。

誰かが自分以外に見せている「分人」としてのふるまいは、これまでそう頻繁に垣間見ることのできるものではなかった。仕事をしている時の自分を家族に見られたりすることは大半の人にとってそう機会のあることではなかったし、小学生だって学校と塾と家では別の自分を使い分けているはずだ。人は早ければ幼稚園の頃から「分人」を使いこなすようになり、年老いて認知症の状態になってもなお、複数の自分というものを有している(コントロールできていないことはあるだろうが)。

SNSの存在によって、そんな誰かの「分人」の姿を日常的に目にするようになった。あいつが日々つぶやいている言葉は、僕とあいつが面と向かって話す内容とは大きくかけ離れているし、あの子が載せる写真とコメントは、僕の知らなかった一面を教えてくれる。なによりも僕自身がここで放り投げている言葉は、誰の前でも見せることのない「分人」である。自分が見られる姿を意識してSNS上でもふるまっている人もいるだろうし、SNSはクローズドな空間だと勘違いして今まで見せていなかった自分をダダ漏れさせている人もいる。そんな自分を不特定多数に晒すのが嫌でSNSを使わない、見るだけという人もいるだろう。ちなみにこの場での僕はオープンな空間であることを認識しながらもほぼダダ漏れに近い。だからブログの説明にも日々垂れ流しと書いてある。内なる別の自分がこんなことやめればいいのにとつぶやいたりもするが、別の自分がどうしてもやめたくないようだ。

SNS上に踊る誰かの「分人」の姿に驚かされることもある。他人を激しく罵る姿やネガティブな吐露に触れて、今までに思い描いていた彼/彼女のイメージとは全く違っていて、抱いているイメージが変わってしまうこともある。おそらく僕自身もまたSNSによって、誰かから見た僕のイメージをネガティブに転化させているに違いない。しかしそれは仕方がないことかなぁと思っている。もっとも誰かから傷付くのでやめてくれと言われれば考えなければならないが(まぁそれにしてもだったら見なきゃいいじゃないかと言う切り返しもできるが、そう言って済む話でないこともあると思うので)。

自分自身がダダ漏れさせているので、少なくとも他の誰かがSNSで発露していることだけを原因に、その人にネガティブな評価をし直したり、面と向かい合った時のふるまいを変えたりはしないようにしたいと思う。実際に実践しきるのは難しいかもしれないが。。