地雷について。

大阪で体罰を苦にして高校生が自殺をした、というニュースを耳にして、その経緯を詳しく追っていくにつれ、心のなかにドーンと振動が走った。当の教師に対するひでえなぁという憤りのような感覚と、おかしいことをおかしいと言い出せないその場の空気(コーチもやりすぎだと思っていたが、恩師であるだけに進言することがはばかられたそうだ)、もしくはおかしいと思う感覚すら麻痺してしまっていたことにやるせなさを感じる。

★★★

こういったことに限らず、僕にとって拒否反応が出てしまうようなトピックはいくつかある。例えば「ホモ」や「放射能」に対する偏見や店員やタクシー運転手に対してやたら上から目線な人など。さすがにオトナなのでその場でムキになって反論することはないが、心のなかではドーンと振動が走り、あぁこの人はこんな人なんだなぁ、と思ったり、この人がこんなことを言った(やった)ことはしっかりと覚えておこうと思ったりしてしまう。

人によっては無神経な「ガイジン」に対する差別や偏見に拒否反応を示したりすることもあるのだろう。差別や偏見の当事者として悩むことの辛さはいかほどばかりだろうか。差別や偏見をうまく受け流したり、自分で処理できる人はなんと心が強いのだろうか。

「あいつホモらしいぜ、キモいよな〜」「フクシマの野菜は食べないほうがいいわよ」その度に僕は、心のなかがドーン、ドーン、ドーンと震える。その放たれた言葉ほどに言っている人たちに悪意はないだろうし、仕事や生き方や気配りなどなどある面では尊敬している人からそんな言葉を聞いてしまうと、なんともやるせない気持ちになる。尊敬している部分が黒塗りになって、この人もとんでもない人だなぁとレッテルを貼ってしまう。

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しかしながら、自分自身の言動もまた無自覚に同じような印象を誰かに与えているのかもしれない。なんの気なしに放った言葉が地雷のごとく、誰かの心のなかをドーンと震えさせているかもしれない。自分に娘ができたとき、その娘が同性愛者だとしても受け入れられるとは思うけど、外国人と結婚するなどと言われたら受け入れられるだろうか、今のところは自信がない。自分が他人をどう傷つけかねないか、ということについてはあまりにも無自覚なのだ。

加えて、人の言動に視野が狭い、ひどいなどとレッテルを貼ることそれ自体が視野の狭い考えであると、最近思うようにもなった。指摘しあって、議論しあって、非難しあって気付くのがいいのか、自分自身の力で(当事者となることなどをきっかけとして)気付くのがいいのかはわからない。しかしそうやってひとつずつ気付いていくしかないのかなぁと思う。