日(空)と食。

武蔵小杉駅金環日食を見た。

日食グラスを通した視界の暗闇のなかに、金色のリングが浮かび上がった。そして数分の後に、リングから細い三日月に移った。心なしか風がひんやりとして、世界が少し暗くなったように思えた。

金環日食を見れた、という気持ちもあったが、こんなにじっくりと空を見たのは久しぶりだな、と思った。薄い雲が湧き上がって群れを作っている。太陽と月の周りだけは、雲が薄くなっている。

昨年フィリピンのプエルトガレラに滞在していたときも、毎日空をよく見上げていたことを思い出した。地方都市なのでろくな天気予報がなく、毎日行動を起こす前に、きょうの天気はどうなるかなと西の空を見上げたり、風の湿り具合を感じたりする。きょうの天気なんて、日本にいればリアルタイムで把握できるし、それが当たり前になっているわけで、そんな手がかりなどなく、空を見て天気を判断するしかない日々に、むしろ新鮮さを感じた。手元のスマートフォンを見れば、降雨状況も1時間毎のピンポイント予報も分かるような時代で、こうやって自分の目で直接空を見てなにかを判断することも無くなっていたことに気付いた。

★★★

久しぶりにレストランに行こうと思って、食べログを開いた。点数順にレストランが並んでいる。レストラン名をクリックすると、口コミの投稿がよく読めるようになっている。初めての店に行く前は、必ずといっていいほど、この口コミを読んでしまう。おそらく自分では気付かないうちに、レストランに付けられた点数も意識してしまっている。そうではないと信じたいが、そのレストランに入って食事をしている時にも、食べログの口コミ投稿を思い出しているんじゃないだろうか。そして、無意識のうちに、その店に与えられた点数と実際の味を比較したり、無理やりシンクロさせて納得してはいないだろうか。

本来「食事」ってそんなものだっただろうか。例え意識していなかったとしても、そんなことを考えながら「食べる」という行為をすることに、薄ら寒い感情を覚える。点数や口コミは、他人の評価であり、今この瞬間に食べているのは僕自身なのだ。「食べる」という本能的な行為を行う時でさえ、自分自身の感覚よりも他人の評価がちらついてしまうのなれば、それは自分を喪失していることに他ならないのではないか。

『グルメ』という言葉にはどんな響きが含まれているだろうか。

最近お昼にお弁当を持っていったりで、平日の外食機会がぐっと減るなか、そんなことを思ったりした。