クレームと優しさ。細菌と白血球。

ごくたまに、お客さんからのクレームを受けることがある。街角でも、いわゆるクレーマーと呼ばれる人の姿を見る。自分自身がクレームを受けるときは、当事者としてひたすら話を聞くことに徹すべく努力をしている(つもりではある)のであまりなんとも思わないが、街角でクレーマーが誰かに攻撃している姿を見るのは辛い。なるたけ見ないようにして通り過ぎる。

何が辛いかと言うと、クレームを受けている人ではなくて、クレーマーと呼ばれる人の姿を見ることが辛い。クレームを付けるその姿の背後から、その人の心が抱える寂しさや悲しさが垣間見えるからである。そして、そういった感情を人に対してぶちまけなければならないほどに切羽詰まっている、その精神状態を想像して、僕は悲しい気持ちになる。

穿った見方なのかもしれないが、クレーマーだって、好きでクレームをしているわけではないのだと僕は思う。育ってきた環境や、今置かれている環境で、何かしら上手くいかなくてストレスを溜め込んでしまい、溜めこんだストレスをうまく発散することもできずにいる結末として、過剰なクレームをしたり、人を攻撃してしまうのだと僕は考えている。僕自身も、人にひどい言葉を投げつけることが少なくないし、それは自分自身がなんらかの面で満たされていないことの現れだと自覚している。ひどい言葉を投げつけたことで、心がスッキリするなどといったことは全くない。また、自己を正当化するような言葉を紡ぎあげてしまう時は、そうしなければ自分で自分を保てないような精神状態になっていることの証左だと思う。そんな言葉を重ねれば重ねるほど、自分の心はそれに抵抗し、自分自身が持っていた力を削いでしまうのだと思う。

そして、自分のなかに潜むクレーマーも、他者から受けるクレームも、結局のところは懐を深く持った優しさで、包んで消してしまうことができるのだと思う。それはまるで細菌と白血球の関係のようなものなのではないだろうか。優しさをどんどん大きく育てれば、どんなに酷いクレームであってもやがては吸収されて力を失ってしまうだろう。もしかしたら、クレーマーと呼ばれる人は、誰よりも優しさに包まれたがっている人なのかもしれない。それならば優しさで包んであげればいい。嫌と言うほど。

どんなに崖っぷちでも、自分を観察すれば、一歩の余裕が生まれて楽になる。そうすれば、自分に嘘をつかずとも生きていける、と思う。