おカネについて思うところ。その4

最近『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』という本を読んだ。

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

もし僕に使い切れないほどのおカネがあったらどうするだろうか。世界中を旅行するか、美味しいものを片っ端から食べるだろうか。人によっては、素敵な女性をはべらせたり、海外の高級車を手に入れたり、豪邸を建てたりするのだろう。しかしながら、それって本当に幸せだろうか。

バレンタインのチョコレート、同じものでも、女性にもらったものと自分のおカネで買ったもの、どちらが嬉しいだろうか。まして、金銭的にはずっと安い材料で作られた手作りのチョコレートと前述のチョコレート、どちらが嬉しいだろうか。

おカネはあって困るものではないし、なければそれなりに苦労するものだと思う。ただ、そこまで自分の人生を費消してまで追い求めなければならないものだろうか。きょうTwiiterのTLを流れてきた誰かのリツイートに、「お金は贅肉、人とのつながりは骨と筋肉。骨皮筋衛門でも困るけど、贅肉だけたくさんあっても・・・」という要旨の文章が流れてきた。僕はなるほどとうなった。

おカネのために仕事をしない人も少しずつ増えてきている。おカネのために仕事をしないことで、純粋に自分の好きなことに取り組める、というメリットがあると思う。それで食っていけるのか、家族を養っていけるのか、という反論が必ず挙がるが、昔に比べれば生活のコストはどんどん下がってきているように思う。現に、昔よりも第一次産業第二次産業に携わる人の割合は減ってきているのだ。イノベーションにより、この流れはまだまだ続くだろう。

おカネのためでないと何のために仕事をするのか(もはや仕事という言葉すら適切でなく、生きていくのか、に換言すべきかもしれない)というと、自分自身のために生きていくのだと、僕も思う。これこそが冒頭の著書にある『評価経済』の社会なのだと思う。

カネを持っていることが、今までほどに価値を持たない時代が訪れようとしているように思える。それでもカネの力を信じてカネの世界に留まろうとする人も少なくはないだろう。幸せの価値は人それぞれだし、モノサシは誰かが強制的に決めるものでもない。しかしながら、だからこそ、人は誰しも自分の根源的なところにあるモノサシに抗うことはできない。自分をだまして生きることはできないのだ。人間の生来持つ(DNAレベルの)根源的なモノサシが、たかだかここ数千年の歴史しか持たないおカネにあるとは、僕にはどうしても思えないのだ。