『歌うクジラ』

一昨日は郡山、きのうは京都と大阪。まだまだ出張が多い。気温はそんなに高くないはずなのに、外にいるととにかく汗をかく。汗をかくこと自体は気持ちいいのだが、スラックスと汗との相性はすこぶるよくない。ステテコとか本気で検討したほうがいいのか。。

2日間の移動中はずっと村上龍「歌うクジラ」を読んでいた。期待にたがわず圧倒的な世界観を描いてくれている。加えて助詞をおかしく使ったりと、言葉遊びのようなチャレンジが多い。多少読みづらいが、その読みづらい感覚すら彼が設定したトラップであって、彼が設定したトラップにまんまとはまって、自分もどれだけその世界に潜り込んでいけるか、というのが本作に限らず村上作品を読んでいくときのツボだと思う。一歩引いて冷静な目で読んでしまっては、あまり伝わってくるものもないし、何よりも読んでいてつまらないだろう。そういう意味では読書も飲酒と同じで、自分をその瞬間違う世界へといざなうための嗜好品と言うこともできるだろう。もっとも現実世界に戻るのにひと刹那必要なので、平日に読むのはあまりよくないとは思ったが。

村上龍の作品はきまって前半部分はだらだらとした種々のエピソードがいくつかちりばめられていて、話が進んでいるのか進んでいないのかよくわからない。そのあたりの様々な伏線(といってもそれぞれのエピソードがラストに至るまでに収拾がついているわけでもないのだが)が意識的あるいは無意識的に読み手の僕に作用してきて、なんだかおかしな精神状態になり、そのトランス状態を楽しむ一種のエンタテイメントを経験しているような感覚。それでいて、普段自分が意識することなく感じていたひとつひとつの感情について考えさせられて、冷静になったりもする。

初めて物語を読み通すときには、そのあたりの伏線はあまり意味を持たないのだと思うが、物語を読んで時間が経ってから、ひとつひとつのエピソードが独立した形で僕の琴線に触れ始める。それは村上龍がそれぞれのエピソードについても、現代社会で噴出しつつあるいくつかの問題の萌芽を盛り込みつつ精緻に作りこんでいるからこその効果なのだと思う。その感覚が好きで、僕は彼の芸術作品を読み続ける。極限まで手の込んだ芸術作品だと思う。(もちろん映画などでその芸術性を感じることができるのだろうが、なかなか僕はそういう機会に恵まれないし、そもそも僕の感性が映画向きではないのかもしれない)