やるせなさ。

珍しく、現役大学生のお話を聞く機会があった。もう彼ら彼女らと地続きの世代だ、という感覚なぞ吹き飛んでいて、もはや自分の子どもに近い感覚である。遥かに遠くになりにけり、、

 

改めて直に話を聞くと、Covid-19がいかに若い世代からかけがえのない経験を奪ったのか、ということに愕然とする。特に誰を責めるということでもないのだけど、やるせない気持ちでいっぱいだ。

 

子どもも若者世代も、この3年間はすごく我慢をしたと思う。神さまが誰にも公平であるならば、この我慢が報われてほしいと切に願う。いまの子たちは本当に我慢強い、というか我慢することが当たり前という感覚で生きてきている。その我慢のうえに、特にいまの老年世代は生きているということを忘れてはいけないと思う。

 

そういう意味では、ここから大きくこの国も変わるのだろう。それがどんな混乱や、もしかすると阿鼻叫喚を招くかはわからないけど、そうでもしないと浮かばれない部分もあるのかな、とは思っている。

トレードオフ。

花粉症シーズンがピークにきて、辛い日々である。なんとなく眠い状態が続く。自宅で仕事をしているとなんとなく昼寝をしたくなる衝動に駆られる。そこで横になって目を閉じればすぐに眠れるわけでもなく、自分が世界から取り残されているような感覚に陥ったりもする。人間というのはやっかいな生き物である。

外を出歩くと、(汚くて申し訳ないが)マスクのなかが鼻水でずるずるになってしまったりするので、できる限り自宅で過ごすようには心がけてはいるのだが、そうするとタダでさえ最近働きが悪くなってきているアタマがさらにぼうっとしてくる。この歳にして、細々と手を動かすことからは卒業して、仕事を仕切ってディレクションをしていくほうのポジションに収まらせてもらっている。口銭だけでそこそこ暮らせる才覚があって良かった。もっともこういう類のスキルはトレードオフの関係にあるもので、切った張ったのプレッシャーにさらされているうちに、アタマが悪くなってしまった、という言い方もできるのかもしれない。いずれにせよ、まだまだキャリアは折り返し、自分なりに道を作って頑張っていかねばならない。

いまを生きる。

日銀総裁が今月で交代になる。アベノミクス、異次元の金融緩和とはなんだったのか、これから日本国民は思い知ることになる。既に社会保障の負担は耐え切れないほどに膨らんでおり、なかなかに今の世の中は働くことへのインセンティブが得づらい時代に入っている。

 

先を見ても不安だらけだ。かくなるうえは、不安からは適度に目を逸らし、いまを楽しむ、ということにフォーカスするしかないのだろう。この先どうなったとしても、楽しかった、そして幸せな記憶が蓄積していれば、人はそれでなんとか生きることはできる。

 

そしてできることは、できる限りたくさんのことに足を引っ掛けておくということだ。いままで信じていたものが信じられなくなった時に、よりどころにできるものが多ければ多いほど、人は倒れにくくなる。単一の価値観に依って生きるのではなく、こういう生き方もあり得る、ああいう生き方もあり得る、という選択肢を持っておくことが、乱世を生き抜くコツになる。

 

新しい総裁の植田さんの表情を見て、もうこの国は延命させずにいったん清算をしにいくのだろうな、という意思が伝わってくる。

アルムナイ。

花粉が本格的に飛び始めてツラい。18歳の頃から症状と付き合っているので、もう20年を超える。

一緒に働いていた人とランチをする。職場が離れてもなお、気にかけてくださり、なにかあったらウチにおいでよと言ってくださるのは本当にありがたい。それだけで気持ちが楽になる。手前味噌にはなるが、辞めてもそうやって声をかけてくれるということは、自分のやってきたことが間違っていなかったのだということを再確認できるなによりのいい機会だ。

いろんな職場で働いて、いい思いをしたこともあるし、時には忸怩たる思いにかられたこともあるけれども、不遇をかこっていた時であっても、見てくれている人は必ずいて、後になって救われる、ということが少なくない。人生にはいい時もそうでない時もあるけれども、全てのことには意味があって、その時その時の表面的な良し悪しだけではとらえられないものがある。だからこそ、人生は面白いのだと思う。

ひとまずは、ガムシャラにやり続けるしかない。

暴力。

スイミングにお迎えに行ったところ、息子が泣いて出てきたのである。聞くと、着替えをしているさなかに誰かに何発か頭を叩かれたのだという。ふいに誰かに暴力を振るわれる経験なんて今の子はそんなにないだろうな、ということを思った。

自分自身が子どもだった頃はまだまだ取っ組み合いのけんかも珍しくなかったし、なによりもきょうだい喧嘩をよくしていた記憶がある。今でこそ消えてしまったが、子どもの頃はこめかみに傷も残っていた。いじめっ子がクラスの子をいじめるようなこともまだまだ普通にあるご時世で、暴力をふるわれないかソワソワしていた記憶もある。

今はそんな行動をするような子もほとんどいなくなってしまったのだろう。小学校も中学校もいじめはかなり減り、優しい子が増えている。だからこそ、暴力を振るわれることに免疫がついていない子どもも多いのだと思う。

もちろん、そんな怖かったり悲しかったりする経験はないにこしたことはない。しかしながら、世の中にはいきなり殴ってくるような人もいるのだ、ということを知っているということには意味がある。そういう世界を知ることも含めて成長なのだと思っている。

天の配剤。

金曜からここまでいろいろあった。野球だけということもなくて、バラエティ豊かな週末であった。最近は週末も半分くらいは仕事が侵食してしまっていたのだが、完全にとは言わないまでもこの週末は仕事から離れていいリフレッシュの機会になった。

 

人間頑張らないといけない時があるのはその通りである。ただ、そういう時間帯がずっと続いてしまうと、人生はどこかで破綻して、心身の健康を失うことになる。もしかしたら神さまがいるのなら、その手前のギリギリのところで天の配剤というものが行われるのかもしれない。

 

少し、トンネルを抜けたのかもしれない。もちろんまだ油断をしてはいけないのだが、1週間前、2週間前と違った視点でこれからを見ることができている。そして、自分のやり方はまだ間違ってはいなかったのだ、という自信を持つこともできた。

 

眠気の限界まで活動して、眠りに堕ちるのは一瞬、という日々が続いている。これはこれで健全なことなのかもしれない。変なことで悶々と悩むことも減った。

おもちゃ。

うちの息子に第二次仮面ライダーブームがきている。きっかけは定かではないが、YouTube仮面ライダーばかり見ているし、クリスマスにはサンタさんから仮面ライダーのバックルセットをもらっていた。さらにはお年玉で自分で追加でギアを買うほどの力の入りようである。

挙げ句の果てに、レゴで自作のベルトを作りはじめた。これも凝ったつくりで、バックルが回転したり、カードを差し込むことができるようになったりと芸が細かい。よくそんなものを見よう見真似で作れるものだと感心する。

息子にはSwitchをはじめとするゲーム機は買い与えていない。自分はどうだったかというと、小学2年生の頃にはゲームボーイスーパーファミコンを始めていたように記憶している。買ってあげてもいいとは思っているのだが、いったん買い与えてしまうと、時間を決めてプレイする、などの決め事がどうしても守れない気がして、尻込みしてしまっている。

それが本人にとって良いことなのかはわからない。子どもの頃にゲームができなかった反動で大人になってからハマってしまうのかもしれない。その時はその時でしょうがないかとは思ってはいる。我の人生と彼の人生は違うのだ。