微熱。

寝不足がたたっての、微熱のような感覚。出張に行くとこういうことはよくある。いまももちろんあくせくと働いているつもりではあるが、体力の消耗度合いは昔と比べると否定はできないよなあ、と思ってしまう。

 

そんなわけで、頭もあまり機能しない1日。周りの人に助けてもらってばかりである。自分は自分のできることに専念して、持ち場でがんばる、ということにフォーカスしていきたい。

 

寝不足をなんとかするためにコーヒーを飲み過ぎたので、胃が荒れている。なにか口にすれば、胃も落ち着くのだが、そもそもムカムカしているので、食欲が湧かない。こんな感覚、昔もあったな、いつまで同じことを繰り返しているんだろうな、と落ち込んでしまう。

 

これから先はリカバリーも遅くなるし、もっともっと体調が落ち込む日も増えてくるかもしれない。そういう時にも、淡々と普段とそれほど変わらないパフォーマンスを出せるように、自分の調子をコントロールできるように、心がけて行くのが大切なことだと思い知る。

月を見ながら。

月蝕だった。満月の空に浮かぶ月が、どんどん赤黒くなっていく。奇しくも人里離れた静かな湖畔の、その上の漆黒の空にぼうっと月が見える。

 

夜半が過ぎてもいそいそと仕事を続けて、モニターに没頭していると、やがて日付が変わって、暦のうえでは一区切りの日がやってきた。

 

30代は振り返ってみればあっという間だった。20代の最終盤から営業に転身して、しんどいな、やりきれるかな、と思いながらも無我夢中でやっていたら、いつのまにか結果がついてくるようになってきた。そこから、ちょっと小休止するような時間を経て、30代の最終盤でまた、新しい切り口にチャレンジして、しんどいなあ、やりきれるかなあ、という入り口に立っている、というのがいま現在地だ。だから、きっと大丈夫だという根拠のない確信がある。

 

家庭環境は、意外と変わらなかったのかもしれない。それでも、時間の経過とともに着実な歩みがあったと思う。静かに、節目の時を迎える。自分のなかでの遊びを大切にして、これからもやれることをやっていく。

胸突き八丁。

さて、泣いても笑っても胸突き八丁の1週間。楽しみながらしっかりとやりきりたい。

 

忙しくはあるのだけど、自分にとって大事なこと、自分の「いま」を形作っているものを端折ることはやらないようにしている。そういった栄養補給があるからこそ、自分なりのパフォーマンスが出せているのだ、という、いわば土台の部分は大切にしていきたい。

 

人の手を借りたり、人に泣きごとを言う、甘えることも、そろそろこの年齢では卒業だ、とは自覚している。そもそもそういうことが受け容れられるポジションでもなくなってきていることもよく理解はしているつもりだが、時にはそういったことに頼ることもあっても良いとも思っている。「社長は孤独である」ということの意味がいまひしひしと感じられるし、神頼みをきっちりとするトップが多いことも、今なら腑に落ちる。

 

最後になりきらなければならなのは他ならぬ自分だ、ということは大前提である。そこから逃げてしまっては全てが崩壊する。一点を見つめて、踏ん張っていきたい。

準決勝。

子どもの野球チーム、まあまあ大切な試合を迎えた。うちの子はまだまだレギュラーでもないのだが、普段とは違うピリっとした緊張感があって痺れる。ひとつ前の試合も観戦していたのだが、これがまたシーソーゲームで手に汗握る展開であった。三年生以下の大会とは思えない内容である。常勝と言われたチームが敗れる波乱となった。

 

勝ちにこだわることももちろん大切だが、単に勝つことだけを目的としてしまうとブレが生じてしまう。まずは野球が好きになって、好きなことを極めるために努力をする、という過程を身につけることで、将来社会に出たときに、戦っていける力を手にする、という考え方には腑に落ちる部分がある。

 

和気藹々とやることも大切だけれども、緊張感のあるなかで、知らない人と相対して戦う、という経験のなかでこそ、身につけられる力がある。子どものうちからそんな痺れる経験を積み重ねていくことの価値はどれほどのものだろうか。ついていくのに大変なこともあるが、幸せなことだと思う。

小学生。

平日の登校時間帯に電車で移動すると、思ったよりも多い小学生に接する。首都圏において、私立小学校(もしくは国立小学校)に通っている子の割合はどんなもんだろうか。ピシッと制服を着込み、多くは朝早い時間の電車に乗っていて、何時に起きているんだろう、そして何時に寝ているんだろう、と思わされる。居合わせた息子は、あら、こんな世界もあるのだとカルチャーショックてある。

 

そして到着した駅では、いつもながらの徒歩通学の小学生を目にする。ホッとする光景ではある。そして、都心であれども全然違う世界なんだな、と思わされる。どちらが良いのかは自分にはよくわからない。個人的には多様性に富んだ幼少期を過ごすことは大切だとは思うが。

 

さらに地方に移動して、田園地帯を歩いて帰る小学生の姿に出くわす。日本にもいろんな場所がある、と小学生ひとつとってみても思う。どの地域に暮らす子どもにとっても、輝かしい未来がくることを願っている。

禍福、流転。

バタバタの1日。結果として子どもと過ごす時間をしっかりと取れたのはよかった。しかしながら朝は早起きで、日中はハンドルを握り、目的地では気を遣う面談の連続、いつもながらのなかなかのハードスケジュールである。楽しんでやるのみであるが。

 

冷や汗をかくような場面もあったが、なんとか丸く収まったのはなによりである。息子にとっても良い経験になったのではないだろうか。やっぱりそれなりの歳になると、父子の会話をたくさんしたくなるものである。自分自身の場合は、父親とはあまりしゃべらなかったし、それは今でもなんとなく続いているのだが、自分の息子とはどんな関係性になっていくだろうか。関係も遺伝するとも思わなくもない。

 

帰り道、さんざんはしゃいだ息子は助手席ですやすやと寝ている。まだまだ可愛い盛りである。いつまでこうやって一緒にきてくれるだろうか、もうあんまり時間はないのかな、とも思いつつ、1日をめいっぱい生きる。

ゼロコロナ。

インバウンドが再開して、地下鉄などでも外国人観光客の姿をよく見かけるようになった。隣に座った人から話しかけられるのも久しぶりだ。みんなきちんとマスクをしている。なんだかんだいって秩序立てて社会がまわっている日本には魅力がたくさんあるのだろう。

 

しかしながら、以前と違うのは、明らかにけたたましい存在感を放つ大陸系中国人の姿を見ないことだ。そのせいか、熱気というほどのものもなく、どこか穏やかな空気が漂っている。

 

Covid-19がなんの意図をもってこの世界に産み落とされたのか、ということをずっと考えているが、ようやくゴールが見えてきたような気がする。大陸中国で発生し、全世界を混乱にまき落とし、そしてその戦いは大陸中国で今もなお続いている。これからもそれは続くのであろう。そしてこれが、大陸中国の自壊の導火線であることは、だんだん明らかになってきた。

 

わずか10日ほど前に、一筋縄で崩れることもないかもしれない、と述べたばかりだが、いまはまたその自信がなくなっている。台湾情勢を含めて、いろいろとキナ臭くなりそうだ。