諸行無常。

京都の南のほうに久しぶりに足を向ける。関西特有の蒸し暑さがある。昔の記憶では、このあたりにもバラックの部落が多く建ち並んでいたのだか、それらの全ては取り壊され更地になっている。過去はいろいろとあった土地であっても、更地になってしまえば後世の人はもはや気にすることもなく買っていくのだろう。時代が変われば街の姿も変わっていく。この街は、あの土地はああいう場所だから、などとひそひそ話をする人も少なくなっていく。


片側二車線の府道沿いには、真新しいロードサイドチェーンの看板が連なる。ロードサイドショップにしても、昔から軒も変わらずやっています、という店はずいぶん少なくなり、新顔が増えた。清潔な店が増えたし、歴史のあるような店も内装はずいぶんとリニューアルしている。昔のままでは生き残ることはできない、というのはひとつの解である。


再生する、ということの意味をかみしめている。まだなんらかの事業性があるからこそ、再生することができるわけで、そうでなければ、朽ち果てて自然に還っていくわけである。どちらがよい、悪いという話でもない。

キレ。

ここ数日体調が思わしくない。普通に活動できる程度なのだが、思考のキレなどは少し落ちている。週末でどこまでリカバリできるだろうか。できなかったとしたら、一度クリニックに行かねばならないと思っているところだ。


先々週はかなり活動量が多くて、その疲れが出たのかなとも思っている。やっぱり昔に比べると体力が落ちている。まがりなりにも一家の大黒柱が体力がないなどというのはまずいことで、改善していかねばならない。たぶんいまの胃腸の状況だと、食べ放題なども受け付けないだろう。食べられるもの、食べられる量も徐々に少なくなり、これが欲しい、というものも少なくなり、、自分がどう満足できるか、でなく周りにどれだけ満足してもらえるものを与えられるか、が40代からのキーポイントになってくるというのは正鵠なのかもしれない。


無理はできない、でも、これからの人生のなかでいちばん若いのはまぎれもなく今の瞬間であり、いちばん無理がきくのもいまの瞬間なのである。もうひと踏ん張りするなら今しかない、と思っている。

圧力。

金融機関を介して、酒類販売を続けている飲食店に圧力をかけよ、という類の指示を出した大臣がいた。予想以上の反発を招きすぐにその発言は撤回されたが、日頃からそのような価値観で政治をまわしていることが明るみに出た。政治家が圧力をかければ、民間企業など従うはずだという非常に浅はかな考えだと思う。


まだ60代にもならない、政治家としては比較的若いはずの人物ですらこういう思考回路になってしまっているのだから、やっぱりこの国の統治システムも限界にきている。この指示を受けた官僚は嬉々として対応にあたったのだろうか、もしそうだとしたら感覚が麻痺しすぎている。


世の中に残るこういった悪しき慣習や価値観を全て吹っ飛ばすために、ここ一年、二年のいろんなものごとは起こされているのだと思うし、それでも為政者たちはそれに気付かずに旧来の価値観のままに邁進している。このままでは全てが強制終了してしまうんではないだろうか、とまで思うようになった。


まだまだ驚くべきことが起こるかもしれない。そして、悪夢のように混乱するかもしれない。そこまできてはじめて、次の世代のためのなにかが生まれるのだろう。

準備。

春以降社内の研修講師を務める機会が多いのだが、昨日は準備不足でさんざんな出来であった。オンラインでしかも相手は顔も出さずなので反応もわからないのだが、出来が悪かったのは間違いがない。


準備というのは正直なものである。適当な覚悟で本番に臨んでもまあなんとかなるだろう、とたかを括っているとたいてい手痛いしっぺ返しを喰らう。細心の注意を払って、ラスト1秒までよいものを作り上げようとする気持ちを持っていると、自分の伝えたかったものを出し切れる内容となる。


もう何度も手痛い経験もしてきて、失敗が許されない年齢になってきているのに、こんな失敗をしてしまうとは、気の緩み以外のなにものでもない。今回ばかりは手を抜いてもなんとかなるだろうだとか、大勢に影響はないだろうだとか考えているからこうなるのだ。いくらその前に顕著な仕事を成し遂げたとしても、こういうつまらないミスで全ては台無しになる。


毎回直前になって眠れない夜を過ごしたり、よりよいものをつきつめていくのは容易いことではないが、失敗したあとの後味の悪さに比べればどうということはない。

第四コーナー。

また緊急事態宣言が出るのか、という感想。正直なところ効き目は薄いだろう。海外からの入国も増加し、肌感覚ではこれまでで最も危ない状況にきているとは思うのだが、その危機感を正しく認識している人は少ない。オリンピックが盛り上がればその高揚感で人は街に繰り出すだろう。酒類提供禁止がなされても、ルールを守る店がどれほどあるか。


やっぱり、オリンピック中になにか致命的なことが起こるという悪い予感が拭えない。根拠はあるのかと問われると言葉には詰まってしまうのだけど、もうそういう定めなのだと第六感が伝えてくるし、いま政府が抱いているであろう楽観論などは完膚なきまでにぶち壊されるだろう。


辛いことが起こるかもしれない。ただ、それくらいのことがないと再生もないのだろう。なにがあっても受け止めるつもりで。そして、ゼロからスタートすることを恐れないつもりで。そして、不必要に周りの人に自分の考えを強制させたり、いたずらに不安を煽るようなことはしないほうがよい。そのような行いは必ず自分に巡り返ってくるのだから。

監視。

もうずっと時計をつけていない。家にもリビング以外には時計を置いていない。時間を知りたいときは手元の端末をみればよいと思っている。


目に見えるところに時計を置くと、どうしても時計に監視されている気分になってしまう。あの時間までにこれとこれを終わらせておかねばならない、家を出なければならない、など。子どもにもずっと、「⚪︎⚪︎分までに終わらせなさい!」などと言ってしまう。仕事を処理するかのように効率的にものごとを終わらせることが果たしていいのか、最近はよくわからなくなってきている。


人間、気分によってきょうは⚪︎⚪︎がやりたくない、という日も間違いなくあるはずだ。そういう気持ちを無視して、必ず毎日⚪︎⚪︎をしなければならない、と決めてしまうのはいかがなものだろうか。ぼく自身は日々のルーティンを飛ばさないことで逆に落ち着く性なのだが、それを子どもや他人にも強要するのはなんだか違うような気がしている。そしてそんな自分も、時間に追われるのは全く好きでない。どこまでも自分のペースでやりたい派である。

学校。

高校を卒業して20年になる。卒業時に埋めて、10年前(ちょうどこの第3次?ブログがはじまってすぐ)に一度掘り起こし、専用の預かりサービスに託したタイムカプセルが期限となり実家に戻ってきていたので、ようやく中身を見る機会があった。


20年前に書いたサイン帳。将来の夢に「学校をつくる」と書いてあった。ああ、そういえばそんなことも書いていた。だいぶ遠回りしたけれど、もしかしたらこれから学校を作る、という人生もあるのかもしれない。ひとつひとつ歩いてきた道のりは、それら単体では、失敗と評されるものもあったかもしれないが、全てはつなげてみれば意味があったものだと言えるのだろう。


悩みや苦しみもまた、前に進んでいくためのエンジンになる。そして、若い頃に掲げた夢はいつまでも消えることなく、いつかは成就する。いまこのタイミングでタイムカプセルを開けたことも、なんらかの意味があるのだろうなあ、と思う。忘れていたんじゃないか、思い出せよ、と昔の自分が語りかけてくる。