水キムチ。

大阪のなかでも、普段あまり行くことのない方面へ。小学生だか中学生の頃の記憶の街は綺麗さっぱりなくなっていて、スッキリとしたロータリーと、真新しい建造物が建ち並んでいた。むかしは本当に狭い長屋ばかりだった記憶がある。


それでも裏通りに入ると、バラックのような木造建物がひしめきあっていて、そのうちのひとつの飲食店にはいった。水キムチがでてくる。その次に鳥刺しをいただく。


大阪には在日の人たちが多い。成功している人も多い。野球場の広告など、在日の人が興した会社のほうが多いかもしれないくらいだ。既得権益にあぐらをかくことなく、みんなたくましく商売をしている。そして在日でない大阪の人もみな、在日の人たちには寛容だと思う。


街のカタチは変わっていけども、そこに暮らす人のスピリットは変わらない。人種がどうだとか、国籍がどうだとか、あまりそんなことにこだわらず、フィーリングが合う人とずっと仲良くやっていけばいいと思う。時にはボタンの掛け違えで関係が崩れてしまうことがあっても、それはそれでひとつの帰結だったのだろう。


卵かけごはんを食べて、すっかりと暗くなった初夏の夜道をとぼとぼ歩く。

働かなくとも。

自分の周りで、「もうあくせく働かなくてもよいんだ」と言う人が増えてきている。ひるがえって自分自身はそういう立場にはまだほど遠いので、羨ましかったり、なぜ自分はそうならなかったんだろうという気持ちになることもある。


そういう人はしばしば「もうそんなにお金はもらわなくてよいから、好きな仕事だけをしてぶらぶら生きていたい」と言う。残りの人生に充分な金銭ができたからといって、仕事をなにもしないで暮らす、というわけでもないのだ。しかし、そういう人に限って、さまざまなところから声がかかり、忙しいままであることに変わりがないのだ。因果なものである。


ベーシックインカムが浸透するとこういう世界になるのかな、と思ったりもするが、そもそもベーシックインカムではなく、資産価格の上昇によって、似たような現象が起こっているのかもしれない。もちろんみんながみんなお金の悩みから解放されるわけではなく、格差拡大も深刻ではあるのだが、徐々にそんな世界が実現していくといいな、とは思う。ビジネスをするのなら、そういうポジションの人たちの力を借りてやるのが1番だ。

なるように。

珍しく夜の23時すぎまで話しこんで、ホテルに戻る。1日にいろんなことがありすぎると、交感神経が昂ってなかなか眠れなくなる。ここ1週間はそんな日が多かった。それなりに疲れているはずなのだが、目を瞑っても脳が落ち着いてくれない。


そのうちに強い雨が窓をたたきつける。自分が滞在しているエリアは幸運にもここ数日ほとんど雨に降られなかったが、太平洋沿岸は断続的に雨が降り続いて河川も増水している。無事に帰れるだろうかと気を揉む。こういうときは体系的な考えごとはできなくて、同じフレーズ、同じ悩みごとがずっと頭のなかをループし続ける。


ふと、起き上がって窓の外を見る。都会の灯りがずっと先まで煌めいている。この街でこれからどんな気持ちで過ごすのだろうか、とぼんやりと考えながら、時間をやり過ごす。そのうちに東の空が明るくなってくる。寝不足なので、動きものっそりとしている。


バスタブに熱い湯をいれて浸かる。少し頭がシャキッとする。帰路も、これからのことも、なるようにしかならない。考えていてもしょうがないのだ。

疲弊と思考停止。

急に在宅勤務の比率が上がることになりそうだ。 もしかすると、オリンピック期間中はフルリモート勤務になるかもしれない。通勤をしなくて済むのは良い面もあるが、仕事の成果は上がらないだろうなと思う。


外部環境によるコストダウンの要請と内部の揚げ足取りなカルチャーがないまぜになって、組織のなかの疲弊度はこれまでにないほどに高まっている。真面目な人が割りを食うのはいつものことだが、これだけいろんなことに追い立てられると、もはやあらゆることに思考停止してしまうのではないだろうか、とも思えてくる。


20代の若い子たちは、優秀で勤勉ではあるけれども、自分たちの頃以上に型にはめられて、いつも規則やルールのことばかりを気にしていて、ちょっと可哀想になる。もっと自由にやればいいのだけど、そんな風になれるようにほどよく肩の力が抜けてくるのはやはり30歳前後になってからなのだろうか。


仕事はどこまでも楽しいものであってほしい、少なくとも僕自身は、それを体現して、周りにも見せることのできる人であり続けたい。

西武線。

西武線沿線にたびたび行くことがあった。普段行くことのない方面である。久しぶりに乗ると、車両も新しくなっている。前は黄色い電車ばかりで駅舎もちょっと古びた感じだったのだが、かなりリニューアルが進んでいる。


そこそこのターミナル駅で降りる。駅前にはタワーマンションが建っている。街自体も徐々に綺麗に生まれ変わっているのだろう。それでも道ゆく人たちの風情は、普段住んでいるあたりとは違っていて、路線によって個性があるんだなあと思う。


改札にはライオンズの試合結果を速報するスコアボードが掲げられている。駅員さんが手書きで書き込んでいくのだろう。そこはかとなく温かみを感じる。


そのうちにざっとスコールが降ってくる。この地域は夏になるとたびたび豪雨に見舞われる。この世のものを全て洗い流そうとせんばかりに雨粒が地面を叩きつける。スラックスの裾がすっかりと濡れて脚にまとわりつく。このまま、空調の効いた電車に乗ると、間違いなく風邪を引くことになるだろう。


西武新宿に着く頃にはすっかりと雨はあがり、真夏少し手前の、少し穏やかな太陽が辺りを照らしている。もうちょっと、頑張ってみるかという気持ちになる。

減便。

今になって気づいたのだが、最寄り駅の電車の本数が減っている。おおむね昼間時間帯は2-3割、地味に朝の通勤時間帯も減便されている。それでも2年前と比べれば混雑は緩和されているのだから良しとせねばならんのかもしれないが、正直なところ個人的には利便性が悪くなっている。


いま住んでいる沿線はテレワーク率も比較的高そうだし、確実にラッシュではなくなってきているのだから、鉄道会社としてはやむなしの判断なのだろう。空気ばかりを運んでいるわけにもいかない。


コロナ禍が過去のものとなっても、テレワークは無くなりはしないのだろう。そう考えれば、減便も受け止めていかねばならないのかもしれない。空気か水のように存在していたインフラも、これからは適正化が図られていくのだろう。まだ人口減少に至っていないいまの居住エリアですらそうなのだから、地方ではもっとその傾向は強まるのだろう。そうなれば、闇雲な上昇トレンドはもう捨てて、パイが縮小するなかでいかに効率的なものを作り上げて、うまく風呂敷を畳んでいくことが今まで以上に求められるのだと思う。

発表会。

ピアノのことはここ1年で何度か言及しているのだが、ついに先日は息子のはじめてのピアノの発表会であった。11月から習い始めて8ヶ月。毎日家で弾くのが大変そうでもあるが、辞めたいということもなくここまで続いているのは立派なものだ。発表会も大過なく終えることができた。


人間なにがきっかけでものごとにハマりはじめるかわからないものである。いつまで続けてくれるだろうか。キーボードではなくちゃんとした電子ピアノをいつか買わなければならないだろうか。悩ましい面もあるけれども、ピアノや音楽が彼の一生の友達になってくれるのなら、高いものでもないと思う。


なんでもいいので、自分が好きだと思えることをひとつでも多く見つけてほしい。昔は好きでいまはそれほどでもなくなったこと(トミカやレゴ?)についても時々は思い出して懐かしがってほしい。いろんなことが積み重なって子ども時代は形作られるものだ。息子が成長する日々を愛しく思うとともに、自分自身が幼かった頃のこともまた思い出すことになる。人生は繰り返し繰り返し堪能するものである。