五輪の十字架②。

(昨日の続き)そういう意味では、東京五輪は本来ならば、日本が世界に先駆けていち早く価値観の変化をとらまえて、新しい価値を披露するまたとない機会だったはずだ。現実はそうはいかず、新しい萌芽はことごとく押さえつけられ、旧世代の、特にもう引退すべき高齢の政治家たちが未だに権力を持ち続けることになった。


どんどん本来目指すべき姿とは違う形に曲げられてしまった東京五輪だが、いまだ、前述の機会であり、このイベントが果たすべき使命は変わっていないと思う。それは、旧来のやり方を貫き通すことで生じる見るも無惨な失敗によって、強引に旧世代の退場を迫り、世代交代をもたらすことになるのだろう。


旧世代はできることなら静かに退場してほしい。ぼく自身もまた旧世代にカテゴライズされるのならば、静かに第一線を去るべきなのだろう。もしくは自分自身のなかの旧世代な部分を葬り去る必要がある。そうやって退場しなければ、必ず無残な形での強制終了、恥を晒すことを余儀なくされるだけなのだ。


東京五輪は中止にせず開催すればいいのだと思う。思いっきり、いろんなところで綻びが出ることだろう。願わくば、アスリートが変に被害をこうむることだけは避けてほしい。いま出せる綻びは全て出しておいたほうがいい。そうやって、禊を済ませて初めて、この国は次の一歩を踏み出せるのだと思う。なにが起こっても、静かに受け止めるだけだ。