器と肝っ玉。

久しぶりに、仕事で胃がきゅうううとなるような判断を迫られた。そのあとに知り合いの人と食事をしたのだが、胸がいっぱいで食が進まず、相手にも途中で心配されるくらいにうわの空になって考えにふけってしまっていたようだ。

そのあとは落ち着くことができたのだが、自分は底が浅いし肝っ玉も小さいなあ、と改めて思う機会になった。これは仕事に限らない話だけれども、人の肝っ玉のサイズはもともと決まっていて、それはいろんな経験を積んだり、努力したからといって大きくなるものではないのだと思う。

反対に、人間としての「器」は、磨いていけば大きくすることもできるもの(広い意味でのスキルも含む)だと思う。たとえば成果を出すために必要なものが、「器」×「肝っ玉」で表されるとすれば、「器」を磨くことなくして、一定以上成果は出せないものなのだろう。

結局のところ淡々と頑張って「器」を拡げていくしかないのだろう。「肝っ玉」に頼りすぎたり、その大きさを過大に見積もってしまうと、潰れてしまいかねないのだと思う。