「チャレンジ」制度とコンピュータ将棋の奇妙な既視感について。
メジャーリーグで今年から導入された「チャレンジ」という制度はなかなか面白い。審判の判定に不服がある場合、ビデオ判定に持ち込むことができる範囲が大きく広がった。手続きの概要は、以下の通りだ。監督がチャレンジできるのは、原則として1試合に1度だけだが、1度目のチャレンジで判定が覆った場合にはもう1度チャレンジの権利が与えられる。ただし、3度以上は許されない。また7回以降、状況に応じて責任審判がビデオ審議を要求することも認められている。
開幕から2週間で84回の「チャレンジ」が行使され、ビデオにより判定が覆ったのがうち1/3にあたる28回という結果だ。興味深いのはイチローが4回もチャレンジの当該プレーヤーとなっており、アウトと判定されたプレーから内野安打2本が生まれた。このあたりのエピソードは、40歳にしてなお俊足プレーヤーとしてならすイチローならではというところだ。
審判の判定は絶対である、という原則に照らせばこの制度は賛否両論あるだろうが、これによって誤審がなくなるのであれば、選手にとっては良い話である。制度としてうまく共存するのであれば、審判の威厳が損なわれることもないであろう。
★★★
しかしながら、この「チャレンジ」制度に、つい先日行われた電王戦におけるコンピュータの将棋の指し手と似た既視感を覚えた。
コンピュータ将棋の特徴のひとつとして、流れで局面を捉えずに、それぞれの局面でゼロベースで最善の指し手を考えて指すことができる、という点がある。人間ならば、この展開ならばこう指すべきだ、などという先入観や経験に流されて指してしまったり、こう指すと構想を立てて進めていた流れから外れた時に心理的な抵抗から、潔く方向転換ができなかったりする。そうしたコンピュータの特性と、今回の「チャレンジ」制度は似ている。
野球のゲームには確実に「流れ」が存在する。何気ないワンプレーがきっかけになり、逆転につながったりすることも少なくない。プレーヤーがその「流れ」を気にするように、公正であるべき審判もまた、「流れ」に乗ってジャッジしてしまうことがある。ピッチャーがテンポよく投げていた場合、本来はセーフになるプレーをアウトとコールしてしまったり、その逆のケースもある。プレーヤーだけでなく、審判がゲームの流れを作ってしまうこともある。
そうした機会が、「チャレンジ」制度によって失われる可能性が出てきている。将棋の場合は、コンピュータが強くなったことによって、さらに奥深いゲームとなった。しかしながら野球はどうだろうか。あまりにも安易にビデオ判定を導入することは、野球の醍醐味であったプレーヤーや審判達が作り出す「流れ」を止めることにならないだろうか。ビデオ判定の適用拡大が、野球の魅力を削ぐことにならないかちょっと心配ではある。