SNSの遺跡。

特にきっかけがあったわけではないが、先日mixiコミュニティから全て退会した。125ものコミュニティに入っていたので、退会の作業をするだけでも15分近くを要した。一つひとつ退会の手続きをしながら、ああ当時はこんなことに興味があったのだなぁとしみじみ思い返した。

コミュニティにどんどん参加したのは2007年頃だったろうか。当時はまだまだmixi全盛期と言ってよい時期であり、コミュニティにコメントを付けることも頻繁にあった。個人情報に関する考え方も緩かった、というかダダ漏れに近かったような気もする。「その人の人となりを知るのには、どのようなコミュニティに参加しているかを見ればよい」とはよく言ったもので、まさに僕自身もコミュニティをそのように使っていた。自分が好きなもの、興味のあるもの、仕事に関係するもの、そんな目線で125のコミュニティを選んでいた。これはある意味もっともデリケートな個人情報であり、本人を特定されかねない情報だと今になって思う。

125のコミュニティを改めて見てみると、数年経っても人間はたいして変わらないものだな、と思う。趣味や興味の対象などは徐々に変わっていくけれども、思考の癖は変わっていない。周りの環境が変わったり新たな経験に触れることによって多少変わる部分はあっても、人間なかなか根っこの部分は変わらないものだ。その根っこの部分は、22歳までにはあらかた固まってしまうものなのだと思う。

★★★

mixiのアカウント自体は一応残すつもりである。もうmixiでなければつながれない人もいないし、退会してしまった方が余計なリスクもないのだが、どうも潔くなれない。それは、在りし日にmixiでなされたコメントのやり取りの記憶や、誰かの日記に残された一文や、自分の分を含めてもうずい分と更新されていないプロフィールの文章に、古いアルバムを開けた時の埃っぽさのような、なんとも言えないノスタルジックな気持ちを巻き起こさせてくれるからである。今でこそほとんど使わなくなったけれど、遡ればmixiをいろいろと活用していた時期があって、そこに戻ればその時の感情がいろいろと思い起こされる。mixi内を巡回すると、そんな気持ちになる。むしろ、巡回するのが小恥ずかしいというか、他人の個人情報を覗き見する背徳感を感じるほどに、素っ裸の情報がほとんど誰にも見られずに残っているように思う。非常に筋の悪いたとえだが、遺跡を探検するのに似ている。