成人式と承認欲求。

成人式の報道を見て、初恋の人のことを思い出して、ブログで書いてみようと思ったが、1年前に既に書いていた。1年前のことなんて案外すぐに忘れてしまうものだ。

相変わらずニュースは騒ぐ新成人の姿を報道しているが、以前に比べるとずいぶん大人しめな感じになってきたのは、新成人の性質が変わったのだろうか、それとも報道を見る僕が変わったからだろうか、報道自体が変わったのだろうか、少なくとも騒いでいる姿を寛容さをもって見られるようになった。彼らは彼らで、この成人式を自分をアピールするまたとない機会として力を入れているのだ。袴や振り袖に工夫を凝らしたり、扇子や和傘など小道具に凝ってみたり、奇抜な行動をとってみようとしたり。グループで揃いの衣装を着てつるむのもなんとも微笑ましい。一生でこんな機会もなかなかないので、好きなようにやればいいじゃないかと思う。これらは所属欲求だったり、承認欲求の一種のようなものである。

所属欲求も承認欲求も、たいてい誰にでもあるものだし、僕も強く持っているものだから、同じような欲求でふるまう彼らのことを笑う立場でもない。このブログだって承認欲求の歪んだ発露のひとつの形だと思う。twitterで彼女欲しいと叫んでしまうのも、Facebookでやたら投稿してしまうのも承認欲求に他ならない。暴走族だってそうだし、社会的に相当恵まれているであろう立場の人が、これ見よがしにそのことをひけらかそうとしてしまうのも、承認欲求が満たされていないからなのだろう。そういう意味では、承認欲求を満たすための手段はここ数年で多様化してきているわけであり、わざわざ成人式で暴れる理由も減ってきているのかもしれない。

承認欲求をコントロールするのは難しい。コントロールできている人は精神力があると思うし、無理にコントロールすることでストレスがかかるのではないかとも思う。なんでもかんでも承認欲求にあてはめるのも良くないが、承認欲求で人の行動原理が説明できることも多いし、承認欲求が原因にあったのだ、と考えると腑に落ちることもある。そんななかで、承認欲求をコントロールすることを他者に求めることは(その行動が周りに迷惑をかけないものである限り)やってはいけないと思う。

自分のなかの承認欲求とうまく付き合っていくことは、人生を歩んでいくなかで相当大きな課題になる。そこでこじらせてしまうことが、世にある心の諸問題につながっていくことも多い。回を改めて諸問題をつらつらと挙げていくつもりはないけど、ふと折に触れて、自分のなかの承認欲求と向き合ってみるべきなのだと思う。SNSという新しい要素が出てきた時代だからこそ。