タハリール広場と渋谷交差点。
きょうは投票日なので、特定の政党や候補のことについては書かないが、選挙の風景について思ったことをもう一度書いておきたくなったので。
★★★
きのう、買いものをしに渋谷に立ち寄ったところ、スクランブル交差点のあたりが異様なムードに包まれていた。複数政党の候補者を乗せた選挙カーがハチ公前にひしめいて、各々演説を行っている。何重もの人垣がそこを取り巻いている。候補者が興奮した声で叫ぶごとに、割れるような拍手や合いの手が入る。涼しい日だったが、異様な熱気が巻き起こっていた。なにも知らずにその場を通りがかった人は、恐怖すら感じていただろう。その有り様を見ながら、何かにのめり込むというのは、自分を捨てなければできないことなのだろうなぁ、というようなことを考えていた。
例えばテレビや映画を見て感動するという行為は、その作品に自分が引き込まれなければ発生しない。どんなに感動的なストーリーであっても、鑑賞者が一歩引いた位置に居続ける限りは、いくばくかは感動したとしても、涙を流すところには至らないだろう。感動していることを自覚しながらも、ここで泣くのは恥ずかしい、みっともないという自我が働けば、精神は一歩引いた位置にとどまり続けようとする。もちろんその我慢強さには個人差があって、全く歯止めが効かずすぐに涙を流してしまう人もいれば、けして心を動かされることのない人もいる。そして世にあまたある作品は、手を変え品を変え鑑賞者の心を少しでも多く、あるいは深く奪おうとする。
渋谷のスクランブル交差点の周りにいる人たちも、ある人は自分を投げ出して演説者に心酔し、ある人は逆にさらに自分を守ろうと心を固く閉ざしていた。どちらにせよ、普段と比べて心を緊張させている人が圧倒的に多く、それが独特の場の雰囲気をつくり出していた。
自分を投げ出してしまえば、自分と演説者との間の世界のなかで心を震わせることができるのだが、その震えを他者に分かってもらったり、分かち合うことは難しい。自分を守ろうと心を閉ざしてしまえば、客観的に目の前のできごとを捉えることは容易くなるものの、自分ごととして受け入れることは難しくなる。結果として、自分が心を奪われるほど、他者との距離を縮めるのは難しくなるし、他者との少しの違いをも受け入れづらくなってしまう。
こそこそと渋谷で用事を済ませ、さぁ電車に乗って帰ろうかという時に、カイロのタハリール広場のことを思った。2年前、当地はどんな雰囲気だったのだろうか。そしてあの熱狂はどこに行ったのだろうか、と。