監視される社会、についての一考察。

病院で待たされたあげくに名前でなく番号で呼ばれたことに腹を立て、その一部始終を書き殴ったことでブログが炎上し、謝罪会見を開くだけでなく議員辞職の可能性すら囁かれていた岩手県議が、自ら命を絶った。

最初にブログ炎上の報を聞いたときには、「まぁこういう人はいるよなぁ」と思った。特権意識が強くて、自分が軽く扱われることが耐えられない。気に入らないことがあれば、歯に衣着せずに発言する。こういう人は珍しくない。ただこの人は県議会議員という地位に就いていた人間だったからこそ、ここまで話題になり叩かれたのだ。普通の人ならば、わがままでちょっと神経質な奴、クレーマーだなぁ、で済んだはずだが、そうはいかなかった。

自殺の報を聞いたときには、死ななければならなあったのは痛ましいし、残念だなぁと思うとともに、やっぱり特権意識の強い人は、いったん自分の拠りどころとしているもの(この人にとっては、県議という地位)を失ってしまえば、脆く崩れてしまうのだろうな、とも思った。プライドも、生活レベルも、いったん上げてしまうとなかなか下げにくいし、下げられないからこその苦しみを味わうことがあるのだと思う。だから、僕はそれらの目線を上げることに怖さすら感じる。

「死ね」なんて言葉を言われたら、たった一度であっても相当傷付く。それが、無数の塊となって飛んできたら、どんな気分になるのだろう。今度は県議のブログを炎上させた側の人たちの責任が問われる事態になっている。心ない言葉を投げ付けた側もまた晒される。結局のところ誰しもが、全ての行動や発言を実名やリアルな姿と紐付けられつつあるように社会は変わっていく。不用意なひと言や、精神状態の良くない時にとってしまった行動が、人生を袋小路にいざなってしまいかねない。窮屈な監視社会になって、人が本当に気を休められるような場所がなくなっている。facebooktwitterで本来の自分を何ひとつ包み隠さず出すことは難しくなっている。

これは、ネットの発達がもたらした副作用なのかもしれない。でも、そこまでネガティブ一辺倒な変化として捉える必要もないのでは、とも思う。こういった炎上事例が、人が悪い行動を取ることを抑制している、という効果をもたらすとも言えるからだ。お天道様が見ているから悪いことはしない、のではなくて、誰かが見ている(可能性がゼロではない)から悪いことはしない、ということだ。失うものが大きい人ほど、利己的なふるまいや感情に任せた行動を取ることを控えるようになるだろう。それは図らずも、人類全体としては利益になるはずだ。それが僕らの望んだ社会の帰結なのか、は別として。