終戦記念日と昭和的なるもの。

全国高校野球選手権大会では、期間中の終戦記念日の正午に試合を一時中断して黙祷を行う(8月6日や9日に行うことはない、もっとも今年は開会式である8月6日に震災の犠牲者への黙祷が捧げられた)。毎年、夏を象徴するひとつのシーンだと思う。僕もこの時期は家にいる間じゅうテレビの高校野球中継をつけっ放しにしてしまう。

サッカーや他のスポーツもかなり人気ではあるが、メディアへの露出度としては未だに高校野球が圧倒的に大きい。新聞社主催であること、春夏の全国大会が全てテレビ中継されること(地方によっては県大会の1回戦からローカル局が中継している)で、夏の風物詩の最たるものと言って間違いない。

生まれてこのかたそういうものだ、と信じ込まされているので、僕らは改めて疑問を持つことがないのだが、よくよく考えてみると、高校野球はスポーツのようで、純粋なスポーツとはもはやかけ離れているように見える。まずもって、夏の一番暑い時期によりによって日本でも一番暑い阪神地区の球場、炎天下で試合を行うのか(プロ野球は夏の時期は休日であろうと屋外球場はナイターになる)、しかも準々決勝くらいからは必ず連戦になる。この過密日程のせいでどれだけの才能ある投手が肩や肘を壊しただろうか。高校野球は観る者の感動を誘うが、未来ある野球選手にとっては無理を強いているだけのような気がしてならない。それがいいと言う人もいるのだろうけど。

加えて、甲子園への出場枠が1府県(都と道は2校)に1校というのも不公平である。毎年、神奈川・愛知・大阪の予選は激戦になる。甲子園に出たいがために、これらの地域の中学生が東北や山陰・四国の高校に野球留学することも多かったが、おらが故郷の代表選手を他県出身の選手で揃えるのはどうか、と批判が多く今では野球留学にも制限が設けられている。

丸刈り(今は少なくなったが)といい、テレビ中継に必ずといっていいほど毎年同じようなアングルで映るチアリーダーの姿や聞きなれたブラスバンドの演奏・人文字(それぞれ純粋に感動させられるのでそれ自体が悪いというつもりは毛頭ない)といい、全てをひっくるめて高校野球なのである。もちろん終戦記念日の黙祷も含めて高校野球なのである。

僕はあまのじゃくながらも結構古いタイプの人間なので、高校野球にまつわるひとつひとつのドラマに胸を打たれる(熱闘甲子園は必ず見てしまう)。時代が変わって、もし高校野球のいかにも昭和的な仕組みや情緒が変わってしまえば、それを寂しいと思ってしまうのだろう。しかし変わっていくのだろうな。