修学旅行の姿に感じること。

昨日を含めて、ここ1ヶ月で何度か京都に出張に行っている。打ち合わせが多いので、普段の取引を伴う出張に比べると気が楽なので、ゆっくり食事をする余裕もある。

京都に行くと、いつの時期も修学旅行生に出くわす。たいていグループに分かれて自由行動をしている(最近はタクシー1日貸切というのも多いそうだが、たいてい京都のタクシードライバーのスリルある運転に肝を冷やすのではなかろうか)。道に迷ってグループでああだこうだ言っている姿も見る。いまなお京都は修学旅行のメッカなのだと思う。京都が嫌いだという人になかなか会わないのは、日本の古都としての雰囲気に、誰しもがDNAのルーツを刺激されるからだろうか。

考えてみると、「修学旅行」ってのは不思議なものだと思う。おそらく海外の教育機関ではこのような性格の旅行はあまり存在しないのではなかろうか。修学旅行の存在が日本人の旅行好きにつながっているような気もするし、逆に日本人の型にはまった旅行形態(もっとも最近の修学旅行は物見遊山タイプのものは少なくなってきているのだろうが)に誘導してしまっている弊害もあるのかもしれない。

しかしながら、自分のことを振り返っても、「修学旅行」を含む学校からの宿泊旅行には今でも思い出せるエピソードがたくさんあるくらいだから、そういうイベントが人生にもたらす効果は少なくないのだろう。夜女子の部屋にこっそりと乱入するなんて今思い出すだけでも興奮する。というか、世の男子はこの時期に満たされなかった願望を(30歳近くになっても未だに)満たしたいという欲求を誰しも心の奥底に残しているであろうことを今この文章を書いていて気付いた(現在の自分が過去にコントロールされていたとは、、)。修学旅行一般について書きはじめたのに、いつしか修学旅行と「性」の問題に論点がすり替わりつつあるが、つまりはそれだけ大事な問題ということだ。生物学的には既に繁殖期であるし、いわんや明治時代以前は15歳〜18歳といえばとっくに見合い結婚をしている年頃である。だからといって別になにかを正当化するわけでもないが(笑)、修学旅行と「性」については、学校側もただ抑圧するだけではなくて、もうちょっと違う形の運用を試みてもいい時期にきていると個人的には思う。自分自身人の親になればまた考えも変わるのかもしれないが。

最後に再度修学旅行の風景に話は戻るが、新幹線のコンコースやホームの地べたに並んで座らせるのは何度みても教育上よろしくないと思う。土足で人が行きかうところなんて、トイレの床とどう違うのか。そりゃあ立っていれば疲れるし、先生も管理しやすいのだろうが、コンビニの前やそこかしこで地べたに座り込む若者の姿というのはこういうところから生み出されるのではないかと感じた。途中「性」の話などに脱線したが、要するにきょう言いたかったのは、教育の現場では「正しいこと」≒「教育する側にとって都合のいいこと」になりがちなんだなぁということ。