深々と。

思わぬ東京の大雪。朝のうちは積もることはないかな、と思っていたのだが、どんどんしっかりと降りはじめ、昼すぎには積もりはじめた。ちょうど昼どきに移動があったのだが、頭にも雪が積もり、コートも白くなってしまった。


ただ、不思議なことに雪が降ると感覚としての寒さはいくぶんマシになるのである。むしろ数日前の、乾燥して冷え切った空気の下のほうが寒いなと思ったくらいだ。湿度のある雪だったせいかもしれない。


夕方近くになると、路面に付着した雪は硬くなり、まるで札幌の街を歩いているかのような気分になる。北海道ももう2年足を運んでいないのだ。行動範囲が狭くなってしまった。


夜、無謀にも千葉方面に会食のために出向く。雪見酒は心地よい。客引きの兄ちゃんたちが、ロータリーで相撲を取ったり、雪合戦をしたりしている。全く元気なものである。


交通機関の乱れもなく、無事に家路につく。朝には道はアイスバーンになっているだろうか。夜になって雪が止むと、なんだか冷えてきたように感じるのは不思議なものだ。

パンドラ。

政治について。岸田内閣は当初想定していた以上に反経済というか、Covidへの過剰な対応が目につくというか、票田である高齢者層の意見に忠実な政策を進めようとしていることがよくわかってきた。これはある意味では野党が政権を取ったときの政策とよく似ている。擬似的な政権交代が起こっていると言ってもいい。


そしてこの政策はウケがよく、Covidの感染状況が小康状態なあることもあいまって、政権支持率もなかなかに良い数値を維持している。野党も攻めどころが全くないし、メディアも矛は緩んでいる。こうなってしまうと、外部環境が悪化しない限り安定政権が続く可能性もある。


とはいえ、個人的にはこの状態は長く続かないとみている。あまりにも小手先の対応で先送りをし続けてしまった。この時限爆弾がどこで爆発するかといったら、残念だけど岸田内閣である間だろう。


なにがトリガーとなるか、とまで問われると難しいのだけども、ボーナスタイムも全て終わる。みんなで裸一貫からやり直すくらいの心持ちでないと、精神的に辛いかもしれない。自分は、その準備はもうしているつもりだ。

ふりかえり。

12月のことを振り返る。去年の春からずっと取り組んできたことについて、最後までやり切れた。とはいえ、死力を尽くしたというよりは、いままでに蒔いてきた種を漏らすことなく刈り取ることに専念していた、というのが正しいかもしれない。オペレーションもそれなりに手のかかるものでもあったので、ただがむしゃらにやるだけでは破たんしていたと思うし、司令塔としては最前線に立つよりも一歩引いたところで判断を下していくことが求められていたのだと思う。そういう意味では自分自身で抱え込まず、無理をしないという選択ができたこともよかった。ただでさえ加齢によりリソースは限られてくるのだから、自分主導でうまく局面をコントロールしていくことの大切さを学んだ。


あとは、素直に努力していれば、最後の最後で勝負の神様は微笑んでくれるんだなあ、ということを再認識したこの年末でもあった。途中、いろいろモヤモヤとすることもあったけれども、変に投げ出すようなこともなかったからこそ、最後に結果がついてきてくれたのだと思う。久しく忘れていた感覚でもあった。

進化する競技。

箱根駅伝をチラ見。ここ3年くらいは年々レベルが上がっていて、もはや数年前とは別の競技にも思える。厚底シューズの浸透もそうだが、青山学院が別次元のレベルに引き上げてしまった。今回も1年生を数多く起用しての圧勝なので、しばらくは青学の天下が続くのかもしれない。


「四年生力」というフレーズの載ったCMが番組中で流れていた。最終学年の意地で結果を残す、という意図だ。そういう要素は人気のひとつではあるけれども、青山学院は特にそういう人情を排して、科学的に練習の消化率や個々の能力を冷静に見極めた起用に徹していた印象がある。その采配がピタリとはまっての今回のレースだったのだろう。


競技としてのレベルは上がっていく。なおかつ青山学院としては、「箱根駅伝」というコンテンツの魅力を高めることにも力を入れている。やれガラパゴスな取り組みで、青山学院の卒業生はその後あまり結果を出せていないだとか、ネガティブ面もあれども、総体としては正しい打ち手なのだろう。


将棋の進化の軌跡もそうだし、耐えず淘汰されてアップデートしていく競技の姿を追うのは楽しいものである。

川崎大師。

もう一度初詣を兼ねて川崎大師へ。なんと10年ぶりのようだ。うーん、この10年はいろいろあった。


お詣り自体は元旦に済ませてあるので、賑わいを感じたり、公園で遊んだり、というのが主目的。きょうも気温は低いが太陽が燦々と照っていて気持ちがよい。買い物も済ませた。テキ屋の出店が参道に並ぶのは久しぶりで新鮮味がある。そして大師の境内はごった返していて、Covid前のようである。


マスクは手放せないし、消毒は頻繁にしてしまうし、人混みにはまだ不安感も覚えるけれども、ずいぶんと暮らしも正常化してきたように感じる。今年こそは、普通の暮らしができるだろうか。


大師前駅から参道への道すがら、キリスト教の信者の人たちが黄色い看板を立て、スピーカーから説教を流している。10年前も同じようなものを見たような気がする。いったいぜんたいあれはどういう宗派なのだろう。あの布教活動が正の効果をもたらすようには思えないのだが、なにか別の戦略があるのか。


とんとこ飴のリズムが小気味よく流れる仲見世を通り、夕暮れの道を駅へと急ぐ。ずいぶんと遅くなってしまった。

元旦の太陽。

元旦は初詣。帰省もしていないので住まいの近場の神社へ。気温は低いのだが、日差しが強くて暖かく感じる。偶然なのかはわからないがお正月はいつも晴天率が高いし、自動車も少ないからか空気が澄んでいる。太陽の力が強い。


下手にどこかに出かけるよりも、地元で長閑な1日を過ごすほうが贅沢だと思ってしまうのだが、それでも人間はなにかしていたい、どこかに出かけたいというのが性なのだろう。


いろいろ世の中は変わってきているはずなのだけれども、お正月の過ごし方は昔とそんなに変わっていない。なんとなく、このままあと数十年くらい過ぎてしまうのかな、という気にもさせられる。


オミクロン株は着実に感染拡大の傾向を示しているが、あまり煽る感じもなさそうである。鼻風邪として風土化していくのだろうか。3回目のワクチン接種に懸念を示す人も増えてくるだろう。潮目が変わってきていることを感じる。


2022年にはCovid騒動は収束してくるのだろう。そしてそこからが、現実と向き合うスタートになるはずだ。受け止めてやってくしかない。周りは周り、自分は自分で切り離して考える。

越年。

2022年を迎える瞬間は風呂上がりに。なんというか、12月に入ってからの師走感やしんみりとした感じは好きなのだけれども、年始の、なんとなく根拠のないフワフワした雰囲気は苦手である。それでも、こうして無事に新しい年を迎えることは「おめでとう」と言えることなのだと思う。


時代の不確実性は強くなっていくし、Covidを通じてどんどん国家への依存にハマってしまった人間がハシゴを外される時間は近づいてきている。どんなゴールに近づいたら残りの人生は安泰だ、という明快な正解はもはや存在しない。だからこそ、目の前のことを楽しんで、むしろ楽しくないことには手をつけないくらいの気持ちで在り続けるべきなのだと思う。


晦日だからこうあるべきとか、お正月だからこうあるべきだとか、そういうことへのこだわりも手放して、自分らしく自分がやりたいと思ったことをすればよい。自分のセンスを信じてあげればよい。それは365日を通して言えることなのだと思う。しきたりや時代に翻弄されず、変化することを怖がってはいけない。