ドーパミン。

新しいビジネスを考えているとワクワクする。もちろん自分で責任を負ってはじめることにはプレッシャーもあるが、それを補って余りあるくらいに、ドーパミンも噴き出してくる。


リスクもあると思うし、いろんな壁にぶちあたることもあるだろう。それでも、挑戦することに意味があると思う。挑戦することを見送って、のうのうと安住するには、もう僕は歳をとりすぎている。


仕事を通じて自分らしさを表現できるというのは、幸せなことである。自分らしさとは時に喜ばしいものばかりでもなく、目を背けたくなるような部分もあるのは確かだが、それも含めて自分なのだと呑み込む。


いまはまだぼやっとしているイメージを、ひとつひとつ具体的なものに落とし込んでいくのはこれからだ。借りものではなく、自分なりの気持ちをこめて、ひとつひとつ丁寧に作っていきたい。


ここ数年の自分は、風呂敷を広げるあまりに、ひとつのことに集中してアウトプットすることが苦手になってしまっていた。やることを絞って、着実に成果を出せるように動いていきたい。

人生は有限。

緊急事態宣言が解除されて1週間、もう我慢しきれないという感じで人出は増えている。COVIDに対する人々の慣れもあり、ここからもう一度行動を自粛するなどということもないだろう。あとは、COVIDの性質がどう変わっていくか、そして気候要因がどう影響していくか、それに賭けるしかない。ワクチン接種は進めるべきだとは思うが、ワクチンが全てを解決してくれるとは思わないほうがよい。


人生は有限なのだから、会いたい人には会っておくべきだし、経験したいことはしておくべきである。いつか落ち着いたら、などと言っているうちに時間はどんどん過ぎ去ってしまうし、健康で身体を動かすことができなくなっているかもしれない。


有限だからこそ、ひとつひとつの幸せが身に沁みる。身近なところでも、一昨年家族で海外に行っておいて本当によかったな、と思う。たとえこれから同じような経験ができなくとも、あの時のことを思い出せば幸せになれるし、いま目の前に辛いことがあったとしてもなんとか乗り越えられる。レベルは違っても、同じような二度とない経験を日々重ねていくことが大切だと感じている。

卒園式。

息子の卒園式であった。前日の大雨が嘘のように空は青く晴れ上がり、この時期ならではの肌寒さが残りつつも、日差しは暖かい。


社会情勢により、保護者の参加は1名までで、僕は知人と談笑しながら園庭で待っていたが、得難い時間であった。ホールからは、先生が名前を読み上げる声や、園児たちが声を合わせてお別れのことばを唱和したり、歌をうたったりする声が聞こえてきた。


この1年、世界ではたいへんなことが起きていたけれども、それでも子どもを育む営み、学びは止まらなかった。そこにこそ、人間の強さがあるし、揺るぎないものがあると強く感じた。


マルティン・ルターの言葉に「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、私は今日リンゴの木を植える」というものがある。結果がどうだとか、効率がどうだとかということの手前に、もっと大切なことがあると思っている。


子どもも、幾重もの試練を積み重ねて強くなるものだし、それは大人とて同じことである。そして、子どもと歩んでいく日々には、決して忘れることのない価値のある瞬間が確かにある。

高校野球2021春。

今年の春は比較的余裕があるので高校野球を観ている。正確に言うとリアルタイムではさすがに見れないので、ダイジェストをみているのだが、なかなかに面白い。昔に比べて選手のフォームも個性的で、型にはめられたという感じがしなくなっている。高校野球も、遅々とではありながらも時代によって進化し続けているのだ。


13塁の場面でエンドランを仕掛けてみたり、ディレイドスチールを仕掛けてみたり、作戦も自由な感じがしていい。野球というスポーツもまだまだ奥深くしていく余地があると思う。


もちろん勝負に勝つ、頂点を狙う、というのもひとつの目指す形ではあるけれども、21世紀枠という存在もまた、高校野球の持つ深みだと思う。高校野球らしさとはなにか、高校生らしさとはなにか、そういったことを追求し続けることには意味がある。


そして、高校生の身体がしっかり動いているさまを見ると、純粋に羨ましい。自分にもあんな時代があったんだよなあ、と思ってしまう。歳を取るということは、自分自身のままならなさとも向き合うことである。

理解力。

朝ドラ再放送の「澪つくし」もあと数回。なかなか淡々と進んでいたけれども、最後にどんどん展開が進む。数日前などは一気に3年近くも時計の針が進んだ。


シンプルなストーリーではあるのだけど、ところどころに伏線が隠されていて、ああこの人は最後は助かるのだな、この人は死んでしまうのだろうな、ということが見てとれる。そして、大黒柱であった久兵衛がどんどん弱っていくのが見ていて辛い。人間いつかは、懸命につむいできたものもどこかで投げ出してしまうことになるのだろうか。


再放送として視聴している我々は、ある程度あらすじも分かるし、少し先の回の予告もわかる。いまリアルタイムで進行している朝ドラも、あらすじはWebでしっかり追えるし、先取りなどの情報(まとめサイトではあるが)も充実している。その分、リアルタイムの視聴のみでしっかりとストーリーを理解する能力が、自分も含めて現代人には不足してきていると思う。だからこそ、今回のシンエヴァも、異常に分かりやすいつくりになっていたのかもしれない。庵野監督が変わったというよりは、我々が変わってしまったのだろう。

見抜く。

人の本質を見抜いて付き合い方を考える、ということの大切さと難しさを日々感じている。ひとつには、マスクを常時付けていることもあると思われる。


もちろん損得勘定で人と付き合うことでもないのだが、的外れなことを言うようになった人、恩を仇で返すような人、以前どれだけ実績があったとしても既に第一線を外れてしまった人、こういう人にいつまでもダラダラと付き合っていても、自分自身生産的でないし、自分自身がその時間をワクワクして過ごしていないとなると相手にも失礼である。


そうして、これは違うなあと感じた環境からは、早めに去ったほうがいい。世間体やタイミングなどを気にしたり待っていてもしょうがない。


この3月末は、いつもにも増して周りの人で新たな道に踏み出す人、いまの環境を卒業する人が多い。なにが正解かなんてわからないし、おそらくどんな道を選んだとしても、正解にするか不正解にしてしまうかはそれぞれの行動如何にかかっているのだろうけど、自分がそれなりに関わった人はできれば、良い人生を歩んでほしいなと思う。

儚さ。

久しぶりに、夜間時間帯の飲食店に行った。食堂でお酒も少しは出している、という類の店だったので、我らの他にもぽつぽつとお客さんは入ってきて、それぞれに夕食を摂っている。確かに、自炊の習慣がない人が毎日コンビニ飯やお弁当というのも辛いだろうから、こういうお店の需要は消えないはずだ。


さんざん叩かれ続けた飲食業界だけれども、どのお店もよく我慢しているな、と思う。日本の飲食業はクリエイティブさでは世界でも有数だけれども、悲しいかな業界で団結して政治力を持って行動する、などということがない。飲食は、平時から開業率も廃業率も高いことが原因なのかもしれない。みんな、いつかは死ぬことを念頭に置いて商売をしているから、こういう非常時になっても、誰が悪いと糾弾するでもなく、ひっそりと店を畳んでいくのだろう。なんとも儚い感じがする。


家賃の高い地下街や路面店などは軒並みテナントがすっぽり抜けてしまった。あと数年経ったら、この光景はどう変わるものだろうか。不死鳥のように蘇り、もしくは新しいプレイヤーが席巻するのだろうか。どちらにせよ、挑戦する者にリターンがくる時代なのは間違いない。