ジェンダー。

なんとなく、落語の部分がなじめないままに前半も終わろうとしている大河ドラマ「いだてん」だが、前回の放送はキラリと光る良さがあった。女子体育に関する回である。 「女らしさ」「男らしさ」について金栗四三や女生徒たちが痛快なセリフを吐くのである。なるほど、こういうジェンダー的なものの見方はあの時代から100年経っても根強く世間には残っているなあと改めて思わされる。令和の時代に女らしさや男らしさは溶け出して、「自分らしさ」に昇華できるだろうか、そんなことを思う。 ひるがえって、うちの息子は思ったよりもジェンダーにとらわれた物言いをすることが多い。あの年ごろだとむしろ過剰なくらいに男女の差を意識し始めるものなのだろうか。 いだてん、例年の大河にはない新たな試みが盛り込まれていて良いのだが、なぜか視聴率は伸びない。でも、目先の視聴率にこだわりすぎずやりたいことを貫いていくのは気持ちが良い。やっぱり最終回まで見届けようと思った。

そこから。

多方面でうまくいかないことが同時に起こったせいでちょっと気が滅入っている。本来的には、ここが踏ん張りどころなのだろうけど、そこまでファイティングポーズを取れる精神状態でもないし、なによりも自分ひとりの人生でない(子どもと向き合う時間もたくさん必要だし、家庭は誰かがまわしていかねばならない)がゆえに、力技で切り抜けていくこともまた難しい。となると、変にメンタルの振り子を揺らすことなく、目の前のことをひとつずつ淡々と、行動量を落とすことなくやっていくしかないのだろう。


そして時間の持つ力を改めて思い知る。負った傷も、いちどきには受け止めきれなかった悲しみも、時間だけが癒してくれるものだ。心を整えて、段取りよく丁寧に自分に関わることを消化していくしかない。どこかにはけ口をぶちまけても、それは後味の悪さとして自分にはねかえり、わが身を蝕んでしまうものになる。


ネガティブなことにフォーカスしすぎるのでなく、そこまでのポジティブなことの積み重ねにフォーカスする。人生はその積み重ねでしかない。

独り立ち。

きょうは息子が幼稚園で通っているスポーツクラブの遠足ということで、少し離れた駅まで送りにいく。休みの日に親元を離れて1日を過ごす、というのは初めてのことなので、親としては感慨深いものがあったのだが、0歳の頃から保育園に通っている息子としてはいつもと同じ感覚なのか慣れたものである。たくましいものだ。


そんなわけで昼間は久しぶりに夫婦2人で過ごすことに。まあこういう時間が全くないわけではないが、2人で店に入って食事をするのも数年ぶりのことである。それはそれで楽しみにしていたのだが、結局話ししているのは子どものことだったりで、こちらも慣れとは恐ろしいものである。夫婦2人で過ごしても手持ち無沙汰になってしまうのだ。


とはいうもののあっという間に2人の時間は過ぎ、夕方にまた迎えにいく。息子は元気に1日を過ごしたようでなにより。僕らが思っているよりも、子どもはずっとずっと早く、独り立ちしてしまうのだろうなあ、と思わされる。

基準。

このところ、身の回りの人が新しい環境に踏み出すことが多い。そして、新しい環境を選ぶ基準がお金ではないケースがすごく多くなっているように感じる。


一見、世の中お金が全ての判断基準のようにまわっているようであるけれども、本当のところは人間の行動基準はお金とは違う基軸で決まっていることが多いのだと実感する。だからこそ、お金が全てだと錯覚して行動してしまうと、非常に浅いバリューしか出すことができず、相対的にビジネス上での競争力を失ってしまうのである。


新しい環境を選ぶときにも、お金だけを判断基準にしてしまうとたいがい失敗するのである。自分のスキルや人脈を十二分に発揮できるか、という視点で選ばなければ、長期的には必ず成果が出せなくなり、お金自体も得られにくくなってくるだろう。


僕もまた、新しい環境でのびのびとやらさせてもらっている。実際のところ、短期的には収入は減ってはいるのだが、長期的には必ず取り返せるようになるための諸々の蓄積ができていると感じる。

アジャスト。

いまの子どもたちは就学前から英語に触れていたり、なかには中国語に親しんでいる子もいる。どう考えても20年後のこの国に、自国内だけで完結するような仕事は数少なくなっているからだ。子どもたちは大変だなあ、だなんてのんきに考えていたが、もはやいま就職活動をしている学生たちも、かなり語学力が重視されるなかでの職探しになっていると聞いて驚いた。


金融庁が人生100年時代に備えて若いうちから一定の資産形成を、などと言い出したし、世の中は思ったよりも早く進み始めている。もう少しいろいろなことを先送りにし続けて、ギリギリになってバンザイするよりも、先にアラートを出す(それでも遅いとは思うが)ように方向転換したのだが、次の世界をサバイバルするための身もふたもない戦略があからさまに語られるようになってきた。そして、もう30代も半ばを過ぎると残念ながらアジャストしきれない部分も出てくるのだろう。


スペックで及ばないなら自分はどこで勝負するか、ということだ。

働き方。

働き方改革などと言われるが、現実は想像以上にドラスティックに変わっているような気がする。


どの職場でも、もはや経営者は従業員に無理に働かせることが一切なくなっている。かわいそうなのは20代の若い子たちだ。本来であれば試行錯誤を繰り返して実力をつけなければならない時期に、充分な量をこなすことができないので、いつまで経っても実力がつかない。少なくともそれなりの規模の企業に入った若い子は、力を持て余してしまうだろう。ベンチャー企業のほうが成長曲線は高くなってしまうのは間違いない。


そして、これだけ労働投入量が減ったときに、企業としてのトップライン収益はどれほど下がるのだろうか、興味深いものがある。これがほとんど落ちないのならば、過去どれだけ生産性が低かったのか、という話だし、逆に大企業の収益性が低下すれば、働き方改革こそが日本の国力は落ちていく決定的な要因になったと後世からは言われるのだろう。

薄さ。

実家に立ち寄ると毎日新聞に目を通す。もう40年以上購読しているはずだ。小学生や中学生の頃などは将棋欄を熟読するのが好きだったし、スポーツ面の野球の試合結果を読み込むことで、数字に親しむきっかけになった。 その名残で習慣のように読むのだが、近年どんどん紙面が薄くなっている気がする。朝刊で30ページ、夕刊ともなると基本的にはわずか8ページ、紙2枚を重ね合わせただけの代物である。もちろん広告もそれなりに載っている(完全に内容は高齢者向けのそれである)ので、夕刊ともなると実際の記事は正味3ページくらいではないだろうか。経済系の記事なども、日経などと比べるとまるで力が入っていない。 これでは購読者数が右肩下がりになるのも無理はない。おカネを払って読もうと思わせるだけの記事がほとんどないのである。朝日や読売はもう少しマシなのだろうが、これだけ単体での経営が苦しくなっている現状では、どこもクオリティを落としているのは間違いなさそうだ。毎日、産経あたりはそろそろXデーもあるのかもしれない。