2001年の晩秋。

登戸の事件に引き続き、練馬で親が子を殺したという事件に接する。切ない、としか言いようがない。どんな思いで父親はわが子に包丁を突き立てたのだろうか。


ニュースを聞いて、19歳になりたての秋のことを思い出した。夏休みに免許を取りすぐにクルマを買って、秋休みに初めてクルマで帰省をした帰りに自損事故を起こしたときのことだ。


ただでさえ事故を起こしてメンタルが弱くなっているところで、保険やらなんやらの手続きで見ず知らずのの人から冷たい言葉を浴びせられて、ショックを受けた。それまでなんだかんだ言って親にも庇護されてきたし、周りの人たちは性善説で付き合ってくれる人ばかりだったから、余計にその冷たさが身にしみた。ただ、そういうことがあったからこそ、窮地で人に甘えても仕方がない、どんな時も自分でなんとかしなければ、そのままズブズブと沼に沈んでしまうだけだ、という考えを身につけることができたのだと思う。


期せずして自立の精神を養うことに繋がったと思えば、中古車一台をお釈迦にしたことくらい、安いものだったのかもしれない。

明るみ。

最近とみに、終身雇用制度はもう保てないだとか、定年を65歳から70歳に引き上げなければならないだとか、いろいろと矛盾したことが叫ばれている。要するに企業も国も自治体ももう余裕がないので、皆さん自助努力で頑張ってくださいね、ということなのだが、いささかひどすぎやしませんでしょうか、とは思う。


結局のところはもうリタイアしてしまった人の年金や医療を削るところには限界があるので、いま働けている人はギリギリまで働いてください、一方で、働くパフォーマンスが落ちてきた人を余剰人員としていつまでも抱えておくこともできないので、キャリアチェンジを考えてください(人手不足の業界にでもさっさと移ってくれ)ということなのだ。


このあたりのことをもう一切オブラートに包まずに言うようになってきた。まあそのこと自体は事実だししょうがないのだが、本来ならばもっと早くアラートを鳴らして、全世代で痛みを分かち合うべきだったのだと思う。団塊の世代はほぼ逃げ切ったということだ。


まあ、逃げ切れたことが幸せだったのかどうかは今の時点ではわからないし、世代ごとにそれぞれの苦労と僥倖があるのも分かるが、やっぱりいまの30代、40代の人生は特にはハードモードである。果たしてどこで報われるのだろうか。

freedom.

人間、なにかを背負って生きるのが良いのか、それともできるだけ軽やかに生きるのが良いのか、これは人それぞれでもあるしなんとも言えない。なにかを背負ってしまえば、苦しい場面で耐え忍ばなければならない場面も出てくるだろう。背負うものが少なければ、窮地から逃げ出して自由に生きることもできる。


ただ、長期的にみてどちらが実力がつくのか、と問われると難しい。ひとつの場所にハマりこんでしまい、無為な時間を積み重ねるのは不幸なことだが、じっと我慢して目の前のことと向き合っているうちに、実力が備わってくることもある。一方で、自由にいろんなところを転々とすることによって、それぞれの場所で良い経験を吸収し力をつけていくこともあれば、尻すぼみのような人生を送ってしまう人もいる。軽やかであるがゆえに、実力を蓄える機会を逃し続けることもある。


昔は軽やかに生きるのが良い、と僕は思っていたのだが、今はそこからやや中立寄りくらいに考えを戻している。

コスパ。

コスパコスパと長らく言われているけれども、みなコストの方ばっかり見ているのではないだろうか。コストを下げることが得意な人ばかりが増えて、パフォーマンスを上げる人が少ないように感じられる。


とりわけ、人生をコスパで全部考えてしまうのは良くないことだと思う。ここでもコストばかり気にして、パフォーマンスとはなにか?という視点が抜け落ちてしまっている。結婚のコスパ、子どものコスパ、家のコスパ、クルマのコスパ、、全部コストを気にして踏み出さないのなら、その人は一体なににコストをかけて、パフォーマンスを手に入れたいと思うのだろう(もちろん、他のなにをさしおいてもやりたいことが定まっている独り身の人もいる)。


そもそも、人生すなわち人の生きてゆくことと、コストという概念は並列するものではないだろう。そんなにコストを気にするのなら、今すぐお墓に入ればよいのだ笑。自分の器ギリギリまで風呂敷を広げて生きれば、パフォーマンスも自ずから最大化するだろう。

あの事件。

あの事件について。本来は書くべきではないのかもしれないけど、個人的に思うことを。


あの日、何人かから「大丈夫?」という類の連絡をいただいたのだけど、自分自身のあまのじゃくな心が噴き出したのもあって、生返事をしたり、ちゃんと返事をしなかった。心配してくれていること自体はありがたいことだし、自分自身が間接的なものも含めてなにか害をこうむったわけでもなかったのだけど、ちゃんと返事をする気にはなれなかった。もちろん報道もあまり見る気にもならない。


どうしたって、日々は続いていくものであるし、引きずられることなく淡々と生活を積み重ねていくしかないのだと思っている。とはいえ、哀しみの解消の仕方は人それぞれであって、知人友人とコミュニケーションをとることがそれに繋がる人もいるだろう。人それぞれだからどうしても相いれない部分もある。それはそれで仕方ないことだ。

都市構造。

大阪市内の路線図を見てみると、中心部が碁盤の目になっていることがわかる。南北を通る主要な道路である「筋」、東西を通る主要な道路である「通」に沿って街が作られているので、地下鉄もその道に沿って敷設されてきたのである。これが東京であるとそういう規律なく路線が入り組んでいるので、分かりにくいとよく言われるのだろう。確かに大阪は、いったん主要な道を頭にたたきこんでしまえば、土地勘を掴みやすい。


大阪環状線も、のカタチはしていながらも、山手線のようにぐるぐる電車が回り続けているわけでもない。一周しただけでそのまま奈良や和歌山方面に飛び出していく電車も多いのだ。東京が都心5区を中心とする同心円状の都市構造になっているのに対し、大阪はタテヨコで区切られる、明確な中心のない都市構造である。


おそらくは、この都市構造の違いに、東京人と大阪人の気質の差があることは間違いない。たまたまその気質が時代と合わず、東京と大阪の差が開き続けたのが平成の時代だったが、さて令和はどうなるだろうか。逆襲もあるかもしれないと思っている。

信用。

もう何度も繰り返し書いてきているような気もするが、ビジネスを進めていくうえでいちばん大切なものは「信用」である。信用からカネを生み出すことはできるが、カネから信用を生み出すことはできない。信用を手放してカネを手にしたとしても、あとはそれを取り崩して終わりである。


そしてカネを貯めることよりも信用を貯めることのほうが難しいのである。信用を失うのは一瞬で、ゼロから積み上げるのは本当に難易度が高い。信用あるふるまい、というのも一朝一夕に身につけられるものではないし、一定時間の間だけ取り繕うことのできるものではない。見える人には全てお見通しである。


信用のカケラもないビジネスが崩壊していくのを横目で見ている。おそらくは、全てが露わになっていく時代なんだろう。信用に値しない人は残念ながらやっぱり遠ざけなければならないし、期待値のコントロールには注意しなければならない。そして自分自信が人からの信用に足る人間であるか、自問を繰り返すしかない。