ノーマスク。

なかなか混んでいる電車に乗っていたところ、隣で立っていた人がどうやらマスクをつけていなかった。どうやら、というのは僕も気づいていなかったからだ。後ろに立っていたおばさんがその若い兄ちゃんに声を掛けてようやく事態を理解した。


「マスク持ってないんですか?」の声で一気に緊張感が増した。兄ちゃんはよく見ると、髭面に帽子をかぶっており猫背で、まともな職に就いているという感じはしない。かけられた声にも鈍く反応するだけだ。次の展開になにが起こるか、身構えてしまう。


するとおばさんはおもむろにカバンの中にごそごそと手を突っ込み、マスクを取り出して兄ちゃんに渡した。兄ちゃんは無言でそれを受け取り口につけた。僕は思わず緊張を緩めた。


ターミナル駅について、電車の扉が開くとどっと乗客が吐き出される。これだけ混雑していたのはCOVIDが流行する春以来なかったのではないだろうか。ガラガラだった電車も、いつしか元の混雑に戻ってきた。冬になり、着膨れした人々で埋め尽くされた社内は、より一層密になっている。懐かしいけれど、落ち着かない。兄ちゃんはいつしか雑踏のなかに消えていった。どこに行くのだろうか。