柿。

お昼前、郊外の駅で電車を待つ。駅のホームの向こうにある保育園から「ようかいようかい」「よーでるよーでる」と歌う声が聞こえてくる平和すぎる時間。僕はガラス張りの待合室のベンチに座って、2,3本電車をやり過ごそうとしていた。脳に疲れを感じた時は、きまってホームのベンチに座ってぼーっとしたくなる。オフィスの椅子やカフェではダメなのだ。

待合室の自動ドアが開いて、ナップザックを背負ったおばさんが入ってきた。登山に行くにしては中途半端な時間だし、下半身はぴったりとしたタイツのようなものしか穿いておらず、なにをしに行く人なのかさっぱりわからない。強いて言うならカーブスにエクササイズ行く人の格好だ。おばさんはベンチに腰掛けるなり、包みを広げた。タッパーに詰まった弁当が出てきた。包みとして使っていたハンカチはおばさんの手をすり抜けて床に落ちた。僕がハンカチを拾って渡した。

おばさんは弁当を食べ始める。コンビニで売っている弁当とは違う、手づくりの弁当ならではのいろんな食材が入り混じった匂いが待合室に充満する。あいにく待合室は僕とおばさんの2人きり。せっかくひとりで心を落ち着けようとした目論見が崩れるが、早く切り上げて電車に乗る気にもなれず、匂いを所与のものとして考えてやり過ごす。

おばさんはおにぎり中心の弁当を食べきって、タッパーを包むと、思い出したように僕に柿を差し出した。スーパーで売られているそれとは違う、皮の奥がじゅくじゅくに柔らかくて完熟の柿だ。ハンカチのお礼なのか、弁当を食べた後ろめたさなのかはわからない。柿を渡す時になにか言ってくれたのだが、僕の耳はその言葉をうまく捉えられなかった。そうしてわけのわからないうちに僕は柿を受け取り、カバンの外ポケットにしまった。

おばさんは急いでカバンの中身を整理して、次の電車に飛び乗っていった。もらった柿は会社で食べるしかないかな、と僕は思っていた。そのままぼーっとしているとその次の電車がやってたので、僕はようやく腰をあげた。

電車が会社の最寄駅に着く頃には僕の気持ちは変わっていた。駅に降りるなり、駅のトイレに向かって用を足し、トイレの棚に柿を置いた。トイレに置かれた柿は、観葉植物のようであり、部屋のたたずまいに妙にマッチした。トイレに柿を置くことも、もらったものをそんなところに置いて立ち去ることも、本当は悪いことなのだが、その時の僕には悪いことだと感じる心が欠落していた。

トイレを出ると、いつもの駅の風景が広がっていた。