いいね!という麻薬。

個人的にはピークは過ぎたのではないかとも思うが、まだまだFacebookSNSの主役を張っている。若い世代はそうでもないのかもしれないが、少なくとも僕ら以上、30代以上となれば今後もFacebookをひとつのインフラとして使っていくのだと思う。

Facebookの特性と言えば「実名制」と「いいね!」である。実名制があるからこそ、節度の効いたコミュニケーションが交わされる場となっているし、いいね!はなんとも日本的な使われ方に進化しているし、あのボタンが装着されている以上、Facebookへの投稿はいいね!を貰いやすい内容になりがちなことは否めない。誰しも、いいね!を貰うことで承認欲求を満たしているという側面もある。

しかしながら、いいね!はなかなか怖いツールだなと思う。投稿に対して、人はいいね!を押すことでその人の行動やチャレンジを後押しすることができるが、逆にネガティブな感情を持った時には、その意思をFacebook上で示すことはかなりハードルが高くなる。それは下手すれば、人を間違った方向へ導うような事態を引き起こしかねないのではないか、と思っている。厳しく指摘されることのない、ゆるやかな共感の世界が、間違った判断につながってしまった、という事例が少なからずあるのではないか。

これは、夢を持つことの話にもつながっている。さかんに夢を持つことがもてはやされて、世間には夢を叶えたというストーリーが溢れている。もちろん夢を持って、それに向かって努力するということを否定するものではないが、夢にこだわりすぎるあまり、現実世界での自分を立ち位置を見失ってしまったり、再起不能な袋小路に行きあたったあげく周りの人に迷惑をかけてしまったり、ということが、昔よりも増えているのではないか。Facebookのいいね!は、そうした夢を実像よりも大きく増幅させるような怖い側面を持っている。

厳しい意見、耳の痛い意見、現実的な意見が言いづらい世界になっている。冷静になってみれば非合理で感情的な意見も、勢力が大きければ力を持ち、世界の空気を動かしていきかねないような、そんな世の中になっているように思う。むろんFacebook上でもネガティブな反応(しかしながらネガティブな反応を読み取ることにもセンスとスキルは必要なのだ。。)を感じることもできるが、みながいつでもそうした反応を察することはできない。そうして軌道修正することも、軌道修正につながるような希少なアドバイスを受けることも、はたまたそもそも間違った方向に進んでいることにも気づかないまま泥沼にはまってしまう。