まじめとこども。

働きはじめる時に親に「○○(僕の名前)はまじめだから、働きはじめてもまぁやっていけるんじゃない」ということを言われた記憶がある。確かにうちの親はまじめ一辺倒でやってきて、不遇な時期もありながらもなんとかやってきたのでそういう趣旨のことを言ったのだろうが、残念ながら僕はまじめではない。親と比べてまじめでない、という次元ではなく本当に不まじめな人間だと思う。このブログの文体も仮の姿で、本物はもっと不まじめである。

なので、というわけではないが、冒頭の言葉にはどうも賛成できない。冒頭の言葉の裏には、「まじめであればたとえ結果が伴わなくともやっていける」という考えが含まれているように思う。そしてこの考えこそが、まじめな人が抱える最大の落とし穴なのだと思う。まじめにやっていたら結果が後からついてきた、ということもあるが、ものごとにまじめに取り組むことは時として非生産的なやり方に拘って泥沼に突っ込むような結末を生む。また、「まじめにやっていればいつかは結果が出るはずだ」と思い込んでしまうのは危険なことで、結果が出ない時に自分を追い込んでしまうことになったり、視野がどんどん狭くなってしまう。そもそもこの考え方は傲慢ですらある。

大切なのは、なんでもかんでもまじめに取り組むことよりも、「なんのために今これに取り組むのか」を考えることだと思う。そして、本当に必要なこと以外は思い切って不まじめにやっつけてしまうべきなのだ。それでも誰も困らないし、迷惑がかかることもない。自分自身も楽になるし、まじめにやっていれば評価されるはず、という傲慢さ(これは案外周りに伝わりやすい)が消えれば、周りの人の共感も得やすくなる。

それでも冒頭の言葉をフォローするとすれば、昔はまじめにやっていれば結果が出る仕事が多かったのだと思う。今はそういう仕事が世の中からどんどん消えているし、生き方としてもそぐわなくなってきているのだろう。まじめにやることを否定する気はないけれども、まじめにやりつつ、まじめさが発する傲慢さを消すことはとても難しい。そうであるならば、まじめさとの付き合いは見直されてしかるべきなんだとは思う。

まぁでも、そんな親の言葉をいちいち取り出してきてああだこうだ言うのではなくて、受け止めたり、理解することも必要なんだろうな、と思ったりもする。それがちゃんとできない僕はまだ、子どもなんだろうな、と思う。