死に向かう心。
昨日の話をもう少し続けてみたい。
老健施設の中を見せてもらう機会があった。マンションのようでもあり、共用スペースは保育園のようでもある。まだまだ元気でプライドもある高齢者が入所するには抵抗があるように感じられた。実際のところ、こういった施設に入所することで人が変わってしまう人も少なくないらしい。
施設の時間は静かに流れていく。まさに穏やかに晩年を過ごしている、という言い方があてはまる。しかしながらいつも平穏というわけにもいかないようだ。認知症の症状が進行すれば、奇声をあげたり、排泄物を漏らしたり(なかには壁に塗りたくったり)いろいろとあるようだ。人は最後には産まれた時の姿に戻っていくのだろうか、と思わされる。
身体の自由が利かなくなったり、認知症が進行してしまえば、それまでにいくら財産を残そうが関係がなくなる。美味しいものを味わうこともできなくなるし、そもそもなにかを楽しむ、ということ自体が既に難しくなってくる。こうした事態はお金を払ったからといって回避できるようなものでもなく、誰にでも起こり得ることだ。やみくもに手を尽くして身体の健康を維持しようとしたことでかえって本人のクオリティオブライフが低下することもある。
そういう状態になった時に最後の望みとなりえるのは、自分が苦しくなった時に弱さを見せられる相手や、感謝を伝えるべき人が周りにいる、ということなのだと思う。それができて、自分の人生に対して納得することができれば、人は安らかに死んでいくことができるとだと思う。最後の最後になって動けなくなった時に、人は自分がどう生きてきたのか、ということに否応なく向き合わされて、答えを突き付けられるのかもしれない。
★★★
しかしながら、若いうちから人生の最後を見据えて打算的に行動する、というのは違うと思う。そもそも数十年先、どう転ぶかわからない未来のことを考えて打算的に行動する、ということは成立するのだろうか、それを打算的と呼べるのだろうか。将来のために今我慢することが数十年先に報われるのだろうか。そんな目論見を立てたとしても、中途の段階で破綻してしまうのではないか。結局なにかをあてにすることはどこまでいってもリスクでしかなくて、心身の健康を保ちながら、いつまでも自活できる力を付けることしかないのだと思う。
結局どの時代に生きようが、それぞれの悩みは尽きないのだ。だから世代間で比較することにあまり意味もない。