老いていく心。

金曜の夜、報道ステーションは19年が経過した阪神淡路大震災に関する特集を放送していた。内容は、住宅を失った被災者のなかでも特に弱い立場にあるひとり暮らしの高齢者に向けて優先的に復興住宅を入居させたことが、逆にコミュニティの分断を招き孤独死を招いているというもの。淋しくひとり暮らす高齢者の日常が映し出され、「あの時(震災で)死んでおけばよかった」という聞いていても辛いおばあさんのコメントが流れる。続いて、神戸市の住宅事業の担当者へのインタビュー。「復興住宅に高齢者を優先的に入居させたのは間違いだったのでは?」「じゃあどうすればよかったんでしょうか?限られた手段のなかでややるだけのことはやった」この部分だけインタビューが行われたわけではなかろうに、半ば悪意的に切り取られているようにすら感じる。おばあさんも行政に対してクレームを言いたかったわけではないだろうし、死んでおけばよかった、というコメントが切り取られて独り歩きするのは、実際に肉親を亡くした人たちにも辛く響くし、おばあさん自身も本意ではないはずだ。このやりとりを繋げて編集することに違和感を感じなかったのだろうか。テレビの前で固まってしまった。

★★★

メディアのことをあげつらっていてもしょうがないので、この放送を見て感じたことをもうひとつ考えさせられたこと。それは、寿命が長くなったことで、残った晩年という時間をどう過ごすのか、という命題がいま生まれているということだ。長生きすることは一般的に良いことと言われているけれど、当の本人や周りの人間にとって本心はそうでもない、というケースが少なくないということが、徐々に語られ始めているのではないか、ということだ。最近そういうケースがとみに増えてきたのか、以前から存在していたものが明るみにされ始めたのかは分からないが、長生きすることがもてはやされる建て前に耐え切れなくなっている人が実際に増えているのだと思う。

医療の進歩もあって、高齢になっても身体の健康が保たれるようになったが、心の健康を保つことに果たして同じだけのリソースが注ぎこまれてきただろうか。身体が健康でも、心が健康でない、という事態について、周りの人が予防する術はあるのか、そもそも自身で予防すべきことなのか、予防するしないを選んだからには自己責任で語られるべきなのか。メディアのように投げかけて投げっぱなしの文章になってしまったけど、これからはそういうことと誰もが向き合う(向き合うことを放棄する、という選択もある)のだと思う。