金銭感覚。

一日中降り続いた雨があがって、晴れ間が出てきた日曜の朝。暑くもなく寒くもない貴重な季節。どんどん出掛けていきたい。

★★★

何年か前に、一瞬にして数千万円を失った人の姿を目の前にしたことがある。眼から力が失われ、抜け殻のようになっていた。あまりにもインパクトが強すぎて、その後もたびたび夢のなかでその能面のような顔が甦った。

数百万円ないし数千万円、というのは大多数の人間がリアリティを感じられるギリギリの金額だと思う。会社の決算で数百億、数千億といった損失が計上されることもままあるが、そのようなレベルの金額にリアリティはない。一個人の時給数百円、数千円の積み重ねの延長線上に想像できるのはせいぜい数千万円である。それ以上の桁になれば、一個人ではどうやっても取り返せないレベルになるので、たとえそれほどの損失を出したとしても、感覚が麻痺してしまう。仕事で数億以上の金額を扱う人も、感覚が麻痺したままカネを扱っている。それがいいとか悪いとかではなくて、そういう感覚にならざるを得ないのだ。しかしながら、大企業の御曹司やアラブの大富豪(例えが陳腐で申し訳ない)ならば、そういった感覚は違ってくるのかもしれない。残念ながらそういった人たちの感覚がわからないので想像の世界でしかないが。何もしなくてもカネが湧き出てくるポジションに居れば、感覚も変わるのかもしれない。

ということを鑑みると、(たいていの)大人がカネを失うことによって受ける影響が極大化するのは、数百万円から数千万円のあたりで、しかもそれが会社のカネではなくて個人のカネである場合なのだと思う。本当はそれではいけないのだろうが、オーナー経営者でもなければ、会社のカネと個人のカネでは集中力が格段に違ってくる。極端な話、会社のカネを数千億溶かしてしまった人で、それを苦に死んでしまった人はほとんどいないはずだ。

カネに困って死んでしまう、カネの恨みで事件が起こる、なんていうのも、数百万円から数千万円のレベルで起こることが多いように思う。それ以上の話になると、むしろあっさりと捉えてしまうようになるのではないだろうか。

前述の人のショックはいかばかりなのか、僕にはわからない。カネを失うダメージは、コツコツと積み重ねてきた積み木を崩される感覚に似ていると思うが、何十年と積み重ねてきたものが崩される気持ちはどれほどだろう。カネにまつわる感情は、他の精神的な揺れ動きとは少し種類が違うと、そう思う。