桜宮高校と反原発運動。

ここ一週間、桜宮高校で起きた体罰を原因として運動部の主将が自殺した事件の話題が続いている。普通ならばそろそろ報道の量も減ってくるはずだが、今回は大阪市の橋下市長が高校の体育科の募集を中止するという事態が発生し、その判断に対する非難の声があがって話がどんどんこじれているように見える。

個人的には、在校生や卒業生がことさらtwitterなどを通じて、橋下市長の判断に対する非難の声をあげたり、桜宮高校にはいいところもたくさんある、などと主張していることに興味深さを覚える。昨今の報道に対して、彼らはおそらく自分のアイデンティティが切り刻まれるような辛さを味わっているのだと思う。しょせん僕は当事者でもなく安全地帯からものを言っているのに過ぎないし、いざ自分が同じ立場に立たされた(母校のことで恥ずべき事件が起こったり)時には同じ行動をとってしまうのかもしれない。だから、彼らの行動を揶揄することはできない。

しかしながら、彼らが母校に対して熱っぽく声をあげることが、現状をより良い方向へと改善していくことにつながるとはどうしても思えない。声をあげればあげるほど、彼らは世間からズレていくように僕には見える。twitter上での在校生どうしのいざこざも起こっている。一部の生徒が熱くなりすぎて、他の生徒が比較的冷静なコメントをしたところに喧嘩を売ったりしている。なかには成りすましもいるのかもしれないが、在校生が顔を出して記者会見などをしていたりもする。

★★★

この構図、なにか強烈なデジャヴを感じる。

僕は脱原発運動を思い出さずにはいられない。活動の精神自体には賛同すべき点が大いにあるのだが、どんどん活動が先鋭化し、周りを叩くようになる。結論ありきの議論で、自分と違う意見に聞く耳を持たない。

見方を変えれば原発推進派の姿勢もまた同じじゃないかと言われるかもしれない。原発事故が起こっても考えを変えず原子力発電を続けようとする姿勢と、体罰による自殺がおこってもなお、体育科を例年通り募集して学校運営を行っていこうとする姿勢は確かに似ている。しかしながら、一部の在校生や卒業生の発言と、過激な運動を続けたあげくに自滅していった脱原発派の行動がどうしてもダブって見えるのだ。

声をあげたい気持ちを我慢すべき、抑えるべき、とまでは言えないし言わないが、感情のままに突っ走ったから押し切れるほど世の中は甘くない。でもそれを高校生に求めるのも酷なことなのかな、とも思う。あと、twitterで発信することの影響力というか、リテラシーはもっと学校で教えられるべきとも(あまり人のことは言えないが)思った。全世界に筒抜けという感覚があまりにもなさすぎる。まぁ高校生にとっては学校が世界の全てだったりするからなぁ。