Being on the Road.

このところ、標高の高い場所にいるわけでもないのに、やけに空の青が濃い。そんな夏空に浮かぶ白い雲を見ていたら、なぜか9年前の日本テレビでの光景が頭に浮かんできた。真新しい汐留のオフィスで機械的に面接が消化されていく。持ち時間はわずか1分。白く明るく光るフロアは学生が必死に自己アピールする台詞でざわついている。無数のリクルートスーツ姿が並んでいるさまは、まるで選別を待つブロイラーのようだ。選別する側の存在である社員はいかにも「ギョーカイ人」といった雰囲気を備えている。今から振り返れば、2003年は古き良き時代だったのかもしれない。ちなみに2003年は近年まれにみる冷夏だった。

そこから幾たびの暑い夏を越えて、めいめいがたどり着いた場所は、それぞれが潜在的に思う、自分がたどり着きたいと願っていた場所だったのだろうか。道のりのなかで、少なくない人たちが、不意にトラブルに巻き込まれたり、はたまた冷静な判断ができず、いっときの情に流されたりして、自分が意図しない道に踏み出してしまうこともあるだろう。しかし、自分がたどり着きたいと願う場所を見失わずに、そこに向かう意思を強く持ち続けさえすれば、最終的にはその意思と意思に伴う努力が、たどり着きたいと願っていた場所へと導かれるようにできている、そんな風に僕は思っている。

では、自分がたどり着きたいと願っている場所にいつまで経ってもたどり着けない、というのは、単に自分の意思が薄弱だから、努力不足だからなのか、と問われると、身も蓋もないが、僕はその通りだと思う。時代の変化や環境の変化を読み切れなかったことや、努力の方向性が間違っていたこと、そもそもたどり着きたい場所に対するイメージの不足が不足していることも含めて、意思と意思に伴う努力が足りなかった、と言っても良いと思う。もちろん、幸運なことに周りの環境に恵まれて背中を後押しさせてもらったり、生まれた環境の過酷さが、たどり着きたい場所をイメージすることすら邪魔させるということもある。誰にも等しく挑戦の機会が与えられているわけではない。しかしながら、意思と意思に伴う努力の力は、そのような前提条件くらいは飛び越えてしまえるものだと僕は思っている。

子どもだから褒められていた言動が、大人になってもそのまま褒められるとも限らない。真面目に努力していれば必ず報われるわけでもないし、楽をできる環境で楽をしてしまえば得られるものの中身も変わってくる。良かれと思って助けたことがその人のためにならないこともある。純粋な心で正論を振りかざしたことが、相手を傷付けることもある。かといって、世の中は悪意と嘘ばかりでできているわけでもない。