正義感。

いつからか、自分でおかしいと思ったことはおかしいと言えるようになった。もちろん自分の主観で「おかしい」と思ったことが他者にとっても必ずしも「おかしい」ものとは限らないし、自分のその判断で人を傷付けてしまったり、そもそも判断自体が誤っていれば謝るようには心がけているし、誤っていたときは恥ずかしい思いをしたりもするのだけど、その場限りの関係などでない限りは、はっきりと自分の意見を主張できるようになったと思う。この変化は自分自身の精神が強くなった、というよりは、周りの環境に恵まれているお蔭だと思う。

目の前のものごとについておかしいと思った時に、同時に自分の心の中で変な正義感が生まれる。自分の心の中の正義感を満足させるために、自分の意見を主張することは心地よくて、ともすれば気分が乗って攻撃的になってしまったりもする。夢中になっている間は気持ち良いのだけど、いざそのほとぼりが醒めてしまうと、おかしいことをおかしいと思ったことと、正義感を満たすことを履き違えている自分に気付く。

一方で、目の前のものごとについておかしいと思った時に、無理やり自分の中でそのものごとを正当化しようとしたり、おかしいと思った感情自体を殺してしまうと、僕の場合はストレスになりすぐに顔に出てしまう。昔は顔に出さずに感情を押し殺すことができたはずなのだが。年齢を重ねるごとに精神は成熟していくわけでもないのだと思う。

結局のところ、自分が「おかしい」と思ったことに対しては闘わなければならないのだ、と思っている。「おかしい」と思うことと闘ってはじめて、そのものごとが本当に「おかしい」のか、理解を深めることができるのだと思う。闘うことは必然で、問題は「どう」闘うかということなのだと思う。いつもひょっこりと自分の心に浮かび上がってくる正義感とどう折り合いをつけて、目の前にあるものごとそれ自体と純粋に向き合えるか、主張をする自分自身が新たな「おかしい」ことの種を作り出すことがないか、注意を払うということだと思う。

自分が「おかしい」と思うことに対して声をあげるときに、自分を少しでも良く見せたいだとか、声をあげることで自分のカタルシスを満たしたいだとか、少しでも考えてしまうと、その瞬間に全ては茶番になり、色褪せてしまうのだ。このブログにしても、自己顕示したいという欲求がいつも文章ににじみ出ているように思う。それらの感情からできるだけ離れたところでモノを書いたり、意見を主張したりできるようになることが、究極的に僕のたどりつきたい場所だと思っている。