喧嘩と怒り。

とんとこの頃喧嘩をしていないことに気付いた。

喧嘩といっても取っ組み合いの喧嘩などはもう20年くらいやっていない。口論もあまりしない。するとしたら電話かメールでの喧嘩だ。見かけによらず僕は喧嘩っぱやかったり、不用意な発言から人を怒らさせてしまったり、僕の性格のつまらないところなのだが、自分が不快感を受けた時に相手に過剰に反省を求めたがったりする。そんなこともあって、前はよく人と喧嘩をしていたし、自分自身喧嘩をすることを怖れていなかった。むしろ一度くらい喧嘩をして気持ちをぶつけ合った方がより関係が深まってお互いの距離が近くなるいい機会になる、とすら思っていた。喧嘩するほど仲が良い、なんていう言葉もあるわけで。

そもそも他人に怒りをぶつけるのはエネルギーの要ることだ。怒りという塊を生成するためには、身体のなかで普段使うところのない部位を燃やすことが必要なように思う。脳で怒る、というよりは身体(肩から背中のあたり?)で怒る、というイメージだ。どれだけ心を鎮めようとしても、身体が勝手に反応してしまうので、やっぱり頭でなく身体に怒りの炎が宿っているのだろう。だから身体が熱くなったりもするというわけだ。

怒りに火がついて、その感情が頭から離れなくなると、四六時中そのことばかりを考えてしまうようになる。たいていはものごとを冷静に捉えられず独り善がりな思考を繰り返すことになるのだが、いざその感情と思考を相手にぶつけたところで、自分の脳内でループしていた思考がそのループを飛びだして客観的な場所に行き着く。その時点で自分自身にとって新鮮な発見が生まれる。独りでそこまでたどり着ければいいのだけれど、自分は全くもって人間ができていないので、他人に自分の感情をぶつけて初めて気付きを得ることが多い。全く相手にとっては迷惑な話だが、そういうこともあって僕はよく喧嘩をしていたように思う。(もう一つの理由としては、我慢強さの不足あるいは我慢することで自分の調子が悪くなることを避けるために外に行動が出たということか)

しかしながらたいていの場合、喧嘩は短期間で収束する。自分で冷静になって折れることの方が多い。強情になって相手に折れさせることもたまにはある。そのうちに、喧嘩の真っ只中の時の感情の記憶は薄くなっていく。時間は記憶を都合よく改ざんさせるとはよく言ったものだ。

喧嘩をしなくなったのはたまたまか、少しは大人になったからか、エネルギーの消耗にうんざりするようになったからか。ないに越したことはないのだが、なければないで、感情や思考を相対化して捉える機会が無くて少し不安になったりもするものだ。