ロンドンオリンピック開会式。

ロンドンオリンピックの開会式録画を見た。

今までオリンピックの開会式と言えば、大掛かりなセットによる派手な演出という印象があったが、今回はミュージカルの舞台を見ているかのようであった。前半部分は英国の歴史を凝縮したストーリー。田園風景やこんもりとした山のある豊かな緑のセットで動物が遊び、英国紳士が闊歩したかと思うと、作業夫が出てきて緑をひっぱがし、煙突がにょきにょきと突き出して、産業革命の情景が始まる。ハリボテの舟に乗って移民とおぼしき服装の人たちがぞろぞろと入場してくる。作業夫が溶鉱炉で輪っかの鉄を作る。空からも鉄の輪がいくつか飛んできて、溶鉱炉で作った鉄の輪が明るく光りながら空に浮かんでいく。そして五つの輪が交わり、五輪のマークが空に浮かんだ。

エリザベス女王が登場し、後半部分はおとぎ話とコメディが交錯する文化のストーリーとなった。子どもが乗った何十台ものベッドがステージに出てきて、英国から生まれたさまざまなキャラクターが現れる。ローワンアトキンソンがいつものように道化を演じる。若者が出てきてビートルズなどの音楽に合わせて踊る。前半部分の紳士や作業夫たちといい、後半部分の子どもたちや若者といい、無名の人たちひとりひとりの立ち振る舞いに個性の豊かさを感じる。著名人ではなくて、ひとりひとりが主役なのだというメッセージを感じる。聖火ランナーにしても、最終ランナーは著名人ではなくて、10代のスポーツ選手たちだった。

そして選手の入場行進が始まる。参加人数の少ない国も、多い国も、思い思いに歩いている。世界各国には今もいろんな問題があふれているが、それぞれの国の選手の顔を見ていると、背後にあるさまざまな問題が吹き飛んでしまうように思える。もちろんこの開会式を歩いているのは世界でも選ばれた人なのではあるけれども。それと同時に、同じ人間であっても、国によってこれほど顔つきやふるまいには違いがあるのか、ということを改めて感じた。

もうひとつ、行進する選手たちがみな、デジカメやiPhoneを手に掲げて写真や動画を撮っている姿が印象に残った。世界にこれだけ多くの国がありながら、デジカメやiPhoneを作る側の国はごく少数だ。「作る側の国」としての日本の力は今なお健在だし、少し前はもっと大きな存在感を持っていたのだな、と思った。そしてその力こそが、日本国内で暮らす僕たちの(比較的)豊かな生活の基礎になっているのだということに気付いた。

オリンピックはスポーツの祭典であるとともに、世界各国のいろんな姿をみせてくれる舞台だ。