強さの評価軸。

一連のオウム事件の指名手配犯が捕まって、改めてオウム真理教の存在について光をあてる番組を見た。オウム真理教の勢力拡大は、バブル経済へのアンチテーゼとして語られることが多い。オウム真理教に入信した人たちは少なからず、世間を覆うバブルの空気、「カネ」をより稼ぐことが素晴らしいこととされたムードをなにかおかしいと感じていた、その空気のなかで確からしい自分の存在を探していた、という考え方は、あながち外れてはいないと思う。しかしながら入信したオウム真理教自体も、一般信者にとってはお布施という名の「カネ」が絡む世界であったことは皮肉なのかもしれないが。

その後バブルは崩壊し、人々を取り巻く経済状況は大きく変わった。にもかかわらず、意外なほどに、人々の根本的な考え方は変わっていないように見えた。依然として、「カネ」を稼ぐ能力のあるもの、「カネ」をより多く持っているものが強者である、という論理を人々は信じ込み、社会は進んでいった。技術と社会の進歩によって、バブル経済の頃に比べてたいていのことがより少ない「カネ」でできるようになったが、人々は新しい強さの評価軸をなかなか見つけ出せずに、「カネ」を信じ込んでいる。バブル崩壊から20年以上経っても、この価値観がなかなか変われないでいる。

しかしながら、昨年の大震災を経て、「カネ」に変わる価値観を人々が身につけつつあることも確かである。いくら「カネ」があろうとも、どれだけではいざという時にはどうにもならないことを痛感した人は少なくないはずだ。経済活動を最優先する価値観に疑問を持った人も多いし、「カネ」よりも大切なものを求めて移住した人もいる。経済成長は七難隠すと言うように、経済発展によって社会にあふれる諸問題のいくつかは自然と解決されたり、隠れて見えなくなってしまうのではないか、と今でも僕は信じているが、今世界の経済危機に対して行われている金融緩和策は、もはや栄養剤かドーピングのようなものにしか見えない。金融緩和を続ければ続けるほど、効き目が切れた時の痛みは大きいものになるし、果たしてそこまでして保とうとする今の経済成長が、社会にあふれる諸問題にとって本当にプラスになりうるのか、そろそろ疑ってみなければならないんではないかと考えている。

現在の先進国経済の行き詰まりと、ミクロレベルでの人々(特に若い世代)の価値観の変容は、人間の強さの評価軸が、「カネ」から別のものへと移り変わりつつあることの現れだと僕は考えている。それぞれが痛みを伴いながら、新しい評価軸を自分にフィットさせようと悪戦苦闘していくことになるだろう。