東南アジア政治経済ゼミ。

久しぶりにアジアに関する学術書らしきものを読んで、ふと大学時代のゼミのことを思い出した。

現代フィリピンを知るための61章【第2版】 (エリア・スタディーズ)

現代フィリピンを知るための61章【第2版】 (エリア・スタディーズ)

大学三年に進級する頃、自然にアジアを専門とする教授のゼミを選んだのは、海外旅行がきっかけだったように思う。韓国を含めると既に三度アジアに旅に出掛けて、そのカオスな雰囲気にすっかり魅了された。

できる限り勉強にかける労力は少なくしたい、と考える不まじめな学生だった僕は、ゼミに所属してから初めてアジア地域の政治や経済に関する基礎的な文献を読むようになった。加えて、JETROが発行している月刊誌『アジ研ワールドトレンド』を読むようになった。この雑誌はアジアに関する最新の研究記事が載っていたり、現地のルポタージュが掲載されており(堅い文章のなかのオアシスのような存在)、今でもたまに読んでみたりする。基礎的な文献を理解して自分の言葉で説明できるようになるまでもかなり苦労したし、ゼミでとんちんかんな発表をして恥ずかしい思いをしたことも思い出す。基礎的な文献をいちおう卒業して、各国の個別具体的な事象に関して書かれた文献を読みはじめるようになれば、それらの事象のなかに存在する、アジアそれぞれの国の国民性や個別事情が透けて見えてきて、また面白さを感じるようになるのだ。

政治の腐敗、国家主導の開発、インフラの発達、どこか牧歌的な匂いのする政策。特に東南アジア各国がこれまで歩んできた歴史には、いつも当事者の人間臭さが伴っているように感じる。そう感じてしまうのは僕の個人的な経験によるものなのか、東南アジアという地域が他の地域(特に欧米)と比べて特別そういう要素を含んでいるのかはわからない。東南アジアを学んで論じる、ということは、そこに暮らす当事者たちのことを深く知る、ということとほぼ言い換えられるようにも思う。学術研究というものは本来ものごとを客観視して為されるべきものであるはずなのだが、客観的な視点に徹するだけでは、見落としてしまうものがあるように思えてならないのだ。あるいは、どんなにマクロな視点からものごとを捉えようとしても、どうしてもそのなかに含まれるミクロな事象や事例に行き着いてしまい、それらの事象や事例を用いなければものごとの本質について論じることができない、とも言える。そんなスタンスでものごとを自己消化しながら論文を書いて、ほうほうのていで学問を修めたことは、今でも役に立っていると思う。