友だち。

その人の書いた文章を読めば、その人の人間性がよくわかるそうだ。なるほど、当たっているように思う。僕の文章には良くも悪くも自分の性格がにじみでていると思う。無理に取り繕うのも嫌なので、そのまま書く。

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BLOGOSにて「困難な時代に生きている友だちを」http://blogos.com/article/29344/
という文章を読んだ。心にぐっとくるものがあった。

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出張などのもろもろで月に一度くらい関西に帰る。だんだん人が少なくなっていくであろう実家をどうするのだろうか、だったり、関西の経済の先行きを心配したりもするが、それにも増して、小学校の友達のことを僕はいつも思い出してしまう。

僕の通った街は大阪市内でも都心にあるというわけでもなく、住宅地にあるというわけでもなく、戦前から残る長屋の多い下町だ。1990年代から既に子どもの数も少なくなっていて、僕の通った小学校の学年はちょうど40人前後で、6年間の間に1クラスになったり、2クラスに分かれたりを繰り返した。みんな顔見知りでひとつのクラスのようなものだ。やんちゃな子、変な子、いろいろいたけれど、いつもわけ隔てなく仲良く遊んでいた。小学生時代は、今までの半生のなかでもかなり幸せな時間だったと思う。

彼らとは、大阪に帰って毎回会うわけではないけれど、大阪に帰ってくると必ず電話をしてしまう。誰しもいつも順風満帆に人生が進むわけではないから、彼らが落ち込んでいるときもある。

運よく、周りの環境に恵まれて大学卒業以来仕事を続けてこられた僕だって、ちょっとしたことで自身を失ったり、将来に不安を覚えたりする。僕は生来の我が侭な性格もあって、カッとするようなことがあってもすぐに相手に立て付いたり、(本来あまりよくないことなのかもしれないが)ブログやTwitterで自分の気持ちを吐露して、うまく自分の気持ちを処理してしまう。だけれども、小学校時代の友達は、僕よりもはるかに純粋であるがゆえに、悩んだり、傷付いたり、社会の不条理さに無力感を感じたりしているんじゃないかと心配になる。彼らの声が社会に届くことはあるのだろうかと考える。こんなことをわざわざ書いてしまう僕もまた、上から目線で、人の心を引っかき回す余計なおせっかい野郎なのだろう。

1995年、阪神大震災オウム真理教が世の中を賑わせたあの頃に一緒に小学校を卒業した僕らは、今年30歳になる。たぶん僕はこれからも大阪に戻って住むことはないし、ふらっと大阪に現われていつの間にか東京に戻ってしまうのだろう。そんな僕が勝手にこんなことをほざくなんて、本当に無責任な奴だと思う。