脳の栄養失調。

寒い日が続く。

自宅の太陽光発電は、夏場には4,000円/月を超える売電量を記録していたが、今月は3,000円/月を割っている。対して、真夏でも買電量は4,000円/月前後でとどまっていたのが、今月は8,000円/月を超えた。今までは寒くとも太陽の出ている日が多かったが、この週末はそれすらもなくて、冷蔵庫のなかにいるような日が続いている。寒さに身体が慣れた頃、冬が峠を越すとはよく言うが、今年はそうもいかずもうしばらくは寒い日が続くようだ。

年始から仕事で帰りが遅くなる日が続いていたが、ようやくひと段落ついた。出張もなく毎日オフィスと自宅を往復して、外出しても近場にくらいしか行かない日々が続くと、日記で書くことがなくなってくることに気付いた。nbonlineだったりダイヤモンドオンラインだったりblogosを通して日々いろんな記事は読んでいるので、インプットをしていないわけではないのだけど、ただ文章を流し込んでいるだけでは全然自分の血肉にならない。下手すれば眼球で文字を認識しているだけで、脳にすらその情報は届いていないかもしれない。自分の五感を通じて、日々体験したことでしか、インプットした文章が事柄として生きてこないのだと思う(僕の場合は)。

あと、時間がない(これは言い訳でしかなくて本当はもっと時間を作り出せるのだが)ことによって、まとまった文章を読めていない。小説にしても、古典にしても、自分の脳のなかにその世界観を作り出せるくらいの一定量の文章を読んでいないので、脳のなかの柔軟性のようなものが低下しているような気がする。脳の柔軟性が低下すると、ものごとを前にして深く立ち止まって背景を考えたり、相手の考えを察したりすることがとても下手になってくる。

★★★

最近、自分にできて他人には代替不可能なものはなんだろうか、とよく考える。全くないわけではないだろう(あきらめてしまえば「全くない」と言えるのだろう)し、その切れ端が意識のなかに見え隠れしているのだけど、なかなか全貌を見せてくれない。

グローバリゼーションはますます取り返しのないところまで進んできていて、代替可能な仕事(の報酬や条件)はどんどん世界の中で標準化されていく。世界的にみればそれなりに高い自分の報酬や生活環境がなにによって担保されているのか、今一度意識し直す地点にきている。今を生きる、という言葉を否定するわけではないが、10年後や30年後の世界について、もう少し想像を働かせてみてもいいとは考えている。