『絶望の国の幸福な若者たち』を読んで〜ふたつの幸せ〜

この間出張に行った際に、『絶望の国の幸福な若者たち』という本を読んだ。低成長を続け、社会保障でも大きな割を食っている現代の若者が、自分がいま幸せだと感じる割合は、意外にも高度成長期やバブル時代と比べて高く、その割合は21世紀に入ってからも上昇し続けている、という統計数値を切り口に、現代の若者を論じた本だ。ちなみに著者の古市氏は僕よりも3つ年下である(蛇足であるが、僕よりも4つ年下の村上氏という人物が創業したリブセンスという会社が来月マザーズに上場することが先日決まった。最年少上場記録更新だそうだ。新しい世代がどんどん出てきている)。

なぜ、現代の若者がそれほどに幸せだと感じているのか、ということについて、古市氏は

『もはや自分がこれ以上は幸せになると思えない時、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない。つまり、人はもはや将来に希望を描けないときに「今は幸せだ」「今の生活が満足だ」と回答するというのだ。』

と述べている。高度成長期は、今よりももっと生活が良くなり、幸せになれる、と考えていたからこそ、人々は足下の生活を幸せとは感じていなかったのだろうと。

このくだりを読んでいて、幸せには2つの種類があって、双方を満たすことは難しくて、みなそれぞれバランスをとったり、満たすことのできない方の幸せに対して目をつぶったりしながら生きているのだろうなぁ、ということをぼんやりと思っていた。ひとつの幸せの尺度は「お金」だったり、「仕事や自分の目標で成果を上たり、自分なりの表現をする」ことだと思う。もう一つの幸せの尺度は「生涯の伴侶を得ること」や「子どもを持つこと」や「仲間と持つこと」だと思う。前者の幸せは、なにか別の言葉に置き換えてもよいかもしれない。

それぞれの種類の幸せについて、どちらの方が大切か、というのは人それぞれだと思うし、優劣をつけるものでもないと思う。しかしながら、どちらかの幸せを追求している場合でも、もう一方の種類の幸せが存在していて、どちらにも価値があることを理解しておかなければ、心が不安定になってしまうのではないかと思う。中高年の自殺が多いのは、もともと前者の幸せを追求することに没頭していたのが、なにかのタイミングでしくじった時に、もうひとつの幸せをおろそかにしたり見出せなかったことで、人生に絶望してしまうのが原因のように思える。

両方の幸せを追っていくのはなかなかチャレンジングなことだけど、これからの10年はそこを意識していきたいと思っている。