イエスマンはいらない。

大阪に滞在していたとき、幼稚園からの親友で今は映像製作・映画監督をしているNくんと飲んだ。大学卒業以来彼は映像の道に一直線、今なお一貫してある意味シュールな映像作品を撮り続けている。なかなかスマッシュヒットとはいかないが、映像の世界で食っていくことができている。

彼は大学を卒業して映像の道を進んで以来ずっとブログを書き続けていたが、今年の初めからその更新が途絶えた。その理由のひとつとして、仕事柄映画をみてその感想を書くことが多いが、その際に、製作会社とのしがらみがあってなかなかストレートに自分の意見を表明できない、というような類のことを言っていた。褒める場合はいいのだが、自分の感覚に忠実に、時に辛らつな感想を綴ったりすると、どうしてもその作品と関連のある製作会社から声がかかりにくいと言うのだ。好きなことを書いて、好きな仕事だけを選んでいればいいのかもしれないが、どこまでもその考えをつきつめるわけにもいかない。そんなことを考えているうちに、ブログで自分の意見を表明することがいつしか自分の表現活動の重しになってしまい、ブログでのアウトプット自体を休むことにしたのだと思う。


その話を聞いて、僕は震災のことを思い出した。

今回の震災では、ありとあらゆるいわゆるアーティストと呼ばれる方々(それこそ将棋指しからお笑い芸人まで)が立ち上がり、ボランティア、チャリティー活動や、被災地へのエールを込めたメッセージを送る、といった姿はみられた。もちろんそれを否定するつもりは一切ないし、立派で素晴らしいことだと思う。普通の人にない才能を持つ人だからこそできる貢献方法がある、ということはそれだけで素晴らしいことだと思う。

しかしながら、様々なバックグラウンドや才能を持つアーティストの人たちが、震災に対してほぼ一様に同じようなリアクションをとった、ということに僕は少なからず驚いたと共に、違和感を感じた。そんなことに違和感を覚えるなんて人でなし、と思われるかもしれないが、もともとそのようなアーティストの人たちは、ある種人でなしとでもいうべき特異な才能を持っていることこそがアーティストたるゆえんではないのだろうか。そう考えると、僕には斉藤和義原発ソングがどうしても好きになれないし、あれが純粋なロックの魂だともどうも思えない。

何によって感情を揺さぶられるか、それとも感情を揺さぶられないかは人それぞれで、一番怖いのは自分のストレートな感情の前に、「こういうときはこうあるべき」だとか思ったり、そう思わざるを得ない空気を読んで行動してしまったりすることだと思う。