一番大きな自分の荷物。

先月出席した友人の結婚式の余興で、高校卒業時に埋めたタイムカプセルを10年経って掘り起こし、その過程を一本の動画としてまとめたのだが、せっかく掘り起こしたので、ということでまた新たにカプセルを作って10年後に開封することにした。また校庭に埋める、なんていことをすると、今度こそ掘り出せなかった、なんていうことになる可能性が高いので、民間の業者の営んでいる保管サービスを利用することにした。それで、先日友人にカプセルに託す内容物を渡してきた。いくつかの今の趣味にかかわる小物と、10年後の『よげんの書(まさに20世紀少年みたいやね)』をしたためて渡してきた。

今から10年後について想いを馳せると、現在の延長線上で生きているような気もするし、全く想像できない道の上を歩いているような気もする。自分自身が取り組んでいることや、取り巻く環境はおそらくかなり変わっていくのだろう。それは自分の周りのミクロな世界でもそうだろうし、日本という国の状況もかなり変わっていくのだろう。そして、それだけ変わっていくにもかかわらず、自分自身の考えや根底に流れているものはもうそんなに変わらないだろうとも思った。

★★★

僕は『経済合理性に基づいて企業や個人が行動するべき』という考えを是とする価値観を持っている。もちろん全てが経済合理性で割り切れる話ではないと思うし、福祉など一部の分野には経済合理性を適用すべきではないと思う。貧乏しながら好きなことを突き詰めるのもいいと思う(それはある意味ではとても贅沢なことだ)。この考え方は自分の生まれ育った環境によって身に付いたものかもしれないし、就職して金融業界で働く中で刷り込まれたものかもしれない。他の価値観から目を背けて自分の都合のいい文章を読んだり、会話をしているだけかもしれない。大学生の子とかから就職の相談を受けるときに、ついつい自分のこんな価値観を織り交ぜながら仕事の内容の説明とかをしてしまうけど、それは単に自分の仕事の内容を肯定するために都合のいい考え方を引っ張ってきている詭弁に過ぎないのかもしれない、とも思う。

これから10年、いやその先にわたっても、なにかエポックメイキング的なことが身の回りに起こっても、人はそれを自分の都合の良いように解釈するだけなんだろう。変わるということは難しい、というか本質的に人間は変わることなんてできないのかもしれない。せめて、自分の間違いに気付いたときに謝ったり、自分のことをできる限り客観的に捉えられるようには努めたいと思う。そうすることを怠ったとき、人間は成長しなくなるのだろう。

さて、10年後『よげんの書』を見てどんな気持ちになるんやろうね。