息子との会話を録音して聞いてみる機会があり、そこで久しぶりに自分の声を聞いた。
昔から自分の声が全く好きでない。鼻にかかったねちっこい自分の声を聞くと、恥ずかしさで気が狂いそうになる。そして、人間とは都合のいい生き物で、自分の声を聞く機会から離れていると、自分の声の気持ち悪さをいつしか忘れてしまっている。気付かない、忘れている、というのは幸せなことだ。
最近は、息子を保育園に送り迎えする道すがら、息子の耳に顔を近づけてしゃべっている。自分ではそれがたまらなく幸せな時間に感じられるのだが、おそらくはたから見ればものすごく気持ち悪い声色をしているのだと思われる。しかも話し手はやたらとニタニタとしているのでさらにたちが悪い笑。
もしかすると、本当の幸せとは得てしてはたから見れば気持ち悪いものなのかもしれない。はたから見ても収まりのいい姿は、当人にとっては他人に見せるために作ったよそ行きの幸せでしかないと言えるかもしれない。そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。